よく「女子校」は怖い場所だと聞く。
女が女の本性を存分に吐き出し、歪み合い、罵り合う。それが女子校だ、と。

女子校出身者として言わせてもらおう。そのイメージは案外間違っていないのかもしれない。
ただ少し言い換えさせてもらうのであれば、「人としての自分の『素』を出せる場所」といった表現の方がしっくりくる。何せ私は女子校に通った高校時代の3年間、「女」としての自分の出し方を考えたことが一度もなかった。
だから女の本性とかいうのは正直、知ったことではない。

共学の醍醐味と言えば、「恋愛」と答える人が多いだろう。中学の卒業間際、クラスでは高校での甘い青春生活への期待で、話に花が咲いていた。

同級生で唯一女子校を進学先に選んだ私は、クラスメイトからどれだけ憐憫のまなざしを送られたことであろう。確かに高校では全く恋愛をしなかった。

素の自分を曝け出した女子校での3年間。たくましさとしなやかさを得た

しかしその分、私はひとりの「人」としてあの輝かしい青春時代を極限まで謳歌した。与えられた「性」にこだわらない「素の自分」で生きた3年間。高校の友人も皆同じくそうだ。
私たちにとってクラスや部活は、小さな「世界」であり、リーダーシップも力仕事も全て女子が担った。だから「男がやるべきこと」「女がやるべきこと」といったバイアスが私たちの脳内には存在しない。皆自分の立ち位置をしっかりと見据え、たくましく成長をしていける環境の中に身をおいた。

また、皆のびのびとしていたため、競争的な心理はあまり働かなかった。
全国優勝レベルのダンス部に所属していた私は、高校時代のかなりの時間を部活に費やした。技術の上手い下手はポジションを左右するため、オーディションが近くなるとピリピリとした空気が漂う。

しかし、そんな環境でも、友人間での競争心はあまり芽生えなかった。「競争」するよりも「共生」することを求めていたからだ。戦う相手は友人ではなく、いつも自分。そして追い詰められた時は「素の自分」を曝け出し、友人に助けを求めた。本番で息のあった演技にいつも高い評価を得ていたのは、「共生」を求めるしなやかさがパフォーマンスに現れていたからだと思う。

素の自分を出すことで得た「たくましさ」や共生を大切にする「しなやかさ」は私の女子校時代で得た財産である。

共学の大学に入学。「女として」なんて言われる度にシールドを張っていた

今、私は共学の大学に通う4年生だ。周りは男子学生の多い環境だ。
入学して最初の頃は、ふとした瞬間に、高校の頃にはなかったシールドを張っていた。「女の子だから」「女として」なんて言われる度に、相手がイメージする「女」の型に勝手にはめられ、自分の振る舞いが決して箱の外にはみ出してはいけないような気がした。それはとても息苦しいものである。

しかし、その度に私はあの3年間を思い出した。
あの頃は、「環境にどう対応するか」なんて学んでいない。受身な姿勢ではなく、自ら変化を起こし、実行していく強さを私は女子校で身につけたのだ。そしてそのためには「素」の自分を出さなければ始まらないことを。

私にとって今の自分の「素」は「強さ」である。変化を起こす強さ。志を遂げる強さ。自分の思いを曝け出せる強さ。その強さは、時に「女性」として、「人」としての自分を守り、成長させてくれる。

環境に常にアンテナを張ることを女子校で学び、共学に入って体現した

柵に囚われず、再び「素」の自分でいるようになってからは、膝を突き合わせて男性と話すのも面白いと感じるようになった。彼らは女子校時代の友人たちにはない考え方を持っていて、授業やゼミでも学びの面白さを深めてくれた。視野が広がるというのは共学の良さの1つだ。

もちろん男性と接する際には注意しなければならないこともある。「素」の自分でいる上で重要なのは、自分を取り巻いている環境に常にアンテナを張り、自分の快適さや居心地の悪さがどこから来ているものなのか意識することだ。

そうすれば、何を変えて、何を失ってはいけないのかが自ずと分かる。これを私は女子校で学び、共学に入ってから体現したと言ってもいいかもしれない。どちらも私にとっては重要な経験だ。