私は全然元気じゃない。
「元気のためにしてること」というテーマタイトルを見て、真っ先に思ったことだ。概要の中の一節にある、元気?と聞かれたら「答えに詰まる私がいる」とはまさに私のことだと思った。

元気の意味を調べてみると、今の自分に不足していることに気付いた

しかし客観的に外側から見れば、私は間違いなく「元気」な部類に入るのだろう。

だって、ここ何年かは風邪もひかず健康で(疲れや寝不足からくるだるさとかは多少あるものの)、何事もなく仕事に行き、同僚とああでもないこうでもないと様々な会話をしながら仕事をこなし、家に帰れば夕飯が出てくるという実家暮らしの恩恵にあずかり、よく眠っている。
自分でこうしてつらつらと書き綴っていても、何の問題もない暮らしぶりだなと思う。

でも、私は全然元気じゃない。
外側ではなく、内側が。いつもどこか、視界にもやがかかるような、そんな感覚を抱いている。

そもそも、元気ってどういう意味だろう。あまりちゃんと考えたことはなかった。
気になって今もなんとなく手に持っていた携帯で検索してみたら、「活動のもとになる気力。また、それがあふれている感じであること」とあった。2つ目に「体の調子がよいこと」とある。

なるほど、どうやら私は後者のほうは持っていて、前者のほうは不足しているらしい。私には活力や気力がないんだ。そう思うと不思議なくらいに納得感があった。
気が付けば23歳、社会人も2年目の半ばに差し掛かっている。もう少し前の自分には確かにあったはずのそれらは、今の私の内側にはない。

幼少期は自分の「やりたい」を知っていて、まっすぐ向かう人間だった

小さい頃は活発で、いろんなこと、ものに興味がある子供だった。
運動会の開会のあいさつや応援団、学習発表会でやる演劇の主役。少しでもやってみたいと思ったものには常に手を挙げ、人前に立ってきた。

演劇の主役は残念ながら勝ち取れなかったが、それでもクラス内のオーディションのようなものは受けて、全員の前でもちもちの木の豆太の台詞をしゃべった。
そんな風に、やってみたいという思いや挑戦を積み上げることが好きだったし、たとえだめでもその過程すら楽しかった。

私は自分の「やりたい」の在り処をちゃんと知っていて、そこにまっすぐに向かっていける人間だった。まあ子供のころなんて、きっと私に限らずみんながそうなんだろうとは思うけど。
とにかく、今の私からすれば、あの頃の私はとてもとてもとても大きな光を持った人間のように思えるのだ。

そんな輝かしい人間も、今となってはなりを潜めた。いつからか、やっぱり他の誰かと同じように、人間関係というものに悩み、愛想笑いを覚え、目立ちすぎたら嫌われるということを覚え、周りの顔色を盗み見ながら過ごすようになった。
当たり障りのない存在。誰の目にも入る場所が好きだったはずの私は、気が付けば端っこを好むようになっていた。

元気でいるとは、自分に嘘をつかず「やってみたい」に素直にいきること

そうやって大人になっていった私は、基本的には明るくて、大した悩みもなさそうで、日々を平凡にやり過ごす人間に落ち着いた。
これはこれできっと悪くない人生。そのことはよくわかっている。

私はけっこう恵まれていて、これ以上何かを手に入れようとするなんて贅沢だ。こんなご時世の中、職を失った人もいるんだよなんて言われたこともある。そういうのはすべてちゃんと分かってる。
でもそれでも、今のこの生活は私の心を元気にはしてくれないのだ。

今だって、活力が湧いてきて「今元気だな、最高だな」と思える瞬間がある。
それは、自分のやってみたいことや行きたいところ、どんな恋人を得てどんな風に過ごすのか、そんなああしたいこうしたいを好きなようにノートに書き綴っているときだ。

なんとなく元気が出ない自分をどうにかしたくて読んだ自己啓発本に、そういうことを実際に紙に書き出してみるといいと書いてあったからやってみたのだ。
好き勝手想像を膨らませ、ノートの中の私の世界が広がっていくとき、心が自由になって活力が湧いてくるのを感じることがある。
あとはこれを実行に移せさえすれば、私は本当の意味で元気になることができるはずだ。

分かってる。周りの目を気にして縮こまるようになった私で居続けるのは、本当はもう嫌なんだ。慣れすぎてしまい、そんな自分を手放すタイミングをつかめずにここまで来てしまったけれど。

元気でいるとは、自分に嘘をつかず、やってみたいに素直になることだ。
そして今の私に本当に必要なのは、心から元気に楽しく生きるためのほんの少しの「勇気」なんだろうな。