私が歩みを止めたとき、それは、創作活動でどんなに頑張って書いたものでも読み手に読んでもらえないときだった。

どんなに良いものを書いても、読み手にみてもらえなければ意味がない

普段、創作したものは投稿サイトにアップして公開している。出来上がった作品を公開するとなると、自分の中での作品の評価の基準の一つとして数字が基準になることは確かである。閲覧数、高評価・低評価の数、ブックマーク数……これは創作活動における一つの指標になる。

数字以外では読み手からの感想や反響……といったところだろうか。これを気にすることなく自分で創作のモチベーションが保てればいいのだけれど、やはり目に見える評価である以上、数字はよく目についてしまう。

ただ、数字が実際の作品の評価に当てはまらないこともある。それは読者の数によっても数字は左右されるからである。
作品を公開したら、まず、読み手の目に留まらせることから始めなければいけない。意外とこのハードルが高い。読み手に作品を読んでもらうところまで進んでもらうには導入部分が大切である。それどころかタイトルやあらすじでいかに人の目を引くかどうかから始まっている。固定の読者がいる場合や、宣伝力がある場合は別だが。

どんなに良いものを書いても、読み手に見てもらえなければ意味がない。読み手あっての書き手と言ってもいい。
それに、読んだ人の数が作品の評価の数値に比例する。この事の重大さは数字に価値を見出すタイプの書き手なら、より深く関わってくる事だろう。

言語化されないと分からないからこそ、読み手の感想には価値がある

ところでよく読み手が感想を書き手に送ることについての話がTwitterなどで話題になるが、書き手のうちの一人である私としては感想をいただけることはとてもありがたい。なぜなら感想は読み手本人が言わない限り、目に見えない評価だからである。

評価には目に見える評価と目に見えない評価がある。
目に見える評価、例えば高評価と低評価の数。これは非常にわかりやすい。良いか悪いか。ただそれだけ。それがはっきりと数字化されるからである。

でも本当に「ただそれだけ」でしかない。何が良いところで何が悪いところなのか、それがわからない。書き手は読み手が思っているよりも作品の反響を気にしていると書くと主語が大きすぎるかもしれないけれど、少なくとも感想をもらうと嬉しい派の書き手はそうなんじゃないかと思う。

自分の評価だけではわからないのだ。良いものが書けた!と思っていても、読み手からの反響が少ないとあれ?あんまりだったのかな?と首をひねることもある。案外、言語化されないとわからないものだ。

それに誰かが良い!と言ったものは他人からも良く見えてしまうものなのだ。言葉による価値の保証と言えば良いだろうか。ショッピングサイトなどのレビューからサクラがいなくならないのはそういうことだろう。

「良い」「良くない」「好き」「嫌い」……それらの感想は言語化されただけでも目に見える評価に変わる。最終的な感想や評価はもちろん受け手に委ねられるわけだけれど、誰かの評価でさえもその対象に対しての判断基準になる以上、見える評価になった読み手の感想がどれだけの価値を持つかというのは明確だろう。

ある人が「あの作品が良い」というと特定の作品のみ評価が伸びる現実

話を戻そう。
私が歩みを止めた理由、それは、どんなに頑張って書いたものでも読み手に読んでもらえないことだった。ありがたいことに固定の読み手の方はいる。でも宣伝力、人に見てもらうための力が明らかに足りていなかった。

何度か影響力の大きい読み手の方の目に留まった事があった。その人が「あの作品は良い」と言った途端に、特定の作品だけが閲覧数と評価が伸びていくのを目の当たりにしたことがある。今でも私の作品の中ではその作品たちだけが群を抜いて数値が高い。だからこそ、宣伝力の足りなさが身にしみてわかった。
数字が数字を呼ぶ。数字が読み手の選ぶ基準にもなっているという事にあの一件で気づいた。

あの一件から数字に囚われ始めた。でも自分の力だけでは限りがある。もちろん、作品の良し悪しや作品の魅力もあるけど、それだけではないことは明白だった。いかに人の目に留まるようにするか、そういった戦略にまで頭を使うようになった。

その反動だったのかもしれない。結果が出ない状況に耐えかね、いつのまにか創作自体が苦痛になり、最終的には何も書けなくなっていた。どれだけ書いても見てもらえないことへの諦めのようなものを感じていた。

「好き」「良かった」の見える評価が、誰かの救いになるかもしれない

結果的に書けなくなった私を救ったのは、読み手の方々からいただいた感想と初心に戻って自由に書くことだった。作品の良し悪しの評価の基準が数字によって狂ってしまった私にとって、いただいた感想は数字と関係なくまっすぐ私の元へ届く見える評価であり、救いだった。

再び創作をするにあたって、私は数字を気にすることをやめた。もともと「私は私が書きたいものを自由に書こう」をモットーに始めたものだったんだ。自分の好きなものを書いて、それをたまたま見つけた人が楽しんでくれたらそれでいい。

初心に戻ってそれくらいの基準で再出発した。人の評価を気にしないで自由にする創作活動は楽しかった。

最後に二つだけ、伝えたいことがある。
創作活動をする中で、数字に囚われてる人に伝えたい。必ずしも数字=作品の価値ではないこと。

それから読み手の立場の人で感想や伝えたいことがある人へ。書き手にどんどん伝えてあげて欲しい。「好き」とか「よかった」とかの一言……見える評価が、誰かの救いになるかもしれない。
どうかそれを忘れないでほしい。