私が「かがみよかがみ」を知ったのは、28歳の秋。きっかけは、峯岸みなみさんのTwitterの投稿だった。
屈託のない笑顔でファンを惹き付ける彼女の文章は、本人と同様に飾り気がなくて、素朴。無駄なものは全て削ぎ落とされていて、透き通っていて。同世代の私の心にスッと染み込んでくるものだった。「私もここで文章を書いてみたい」と思い、今に至る。
私は自分の文章を「エッセイ」と呼ぶことに抵抗がある。とはいえ、「おまえの書いた文章は、何だ?」と問われたならば、「エ、エッセイです……(照)」と答えるしか無いのだけれど。……なんだか、気恥ずかしくて。
私のInstagramのキャプションは徐々に短く、最終的には1行になった
私は元々、読み手を意識して長めの文章を書くことが好きだった。私の場合は
mixi→カップルサイトの日記(青春)→Facebook→Instagram→かがみよかがみ
という流れ。それぞれの世代でポピュラーな遍歴があると思う。
私の文章はどれもこれも煩雑で、ちょいちょいウケ狙い(関西人の業)。それでも学生時代、物好きな友人からは「面白い」「続けてね」と言われた事もあった。
私にとって趣味とも呼べる、文章を書くという行為。しかし26、27歳を過ぎた辺りから何となく、この行為と私との間に、隔たりができていった。
まず、Facebookを開かなくなった。今、久々に見てみたけれど、友人の投稿も仕事の告知ばかり。趣味や日常を綴った文章は、ザッと遡っても見当たらない。
そして私のInstagramのキャプションは徐々に短く、最終的には1行になった。日常を残す投稿はたまにするが、なんせキャプションに書くことが無さすぎる。
というか、書けることが無さすぎる。それは何故か。人がネットに日常を残す文章は、基本的に日記属性ではなくエッセイ属性だからだ。読み手がそこに居るからだ。
子持ちである事の希少価値は年々失われ、長文を書く気力は消え失せた
私は29歳の今、3人目を妊娠している。同世代の中では控えめに言っても、マイナーな生き方をしていると思う。そんな私も最初の方は、進んで結婚や出産、子育ての様子をSNSに綴っていた。実名で。私の経験談が役に立つかも?と、純粋に思っていた。
実際、Facebookに書いていた息子達についての文章には、普段やり取りのない友人からもちょこちょこコメントが付いた。
しかし2人目を24歳で出産し、26、27歳になった頃には、長文を書く気力はすっかり消え失せていた。子持ちである事の希少価値は年々失われ、私より遥かにキラキラした友人達が、シュッとした旦那と、可愛い子どもとの生活をSNSに投稿するようになっていったからだ。
張り合う必要は無い、そんな事は分かっている。それでもきらびやかなタイムラインを見ていると、自分の未熟な部分が、ジンジンと痛んだ。無い物ねだりだ。私は単純に、画面で見える範囲の友人の「偶像」に、嫉妬していたのだと思う。
私が実名で本音を書ける場所は、どこにも残っていなかった
そして今も、私は考える。29歳の私が、子持ち主婦(妊婦)の日常を垂れ流す長文を、実名で投稿したとしたら。画面の向こう側で暮らす友人達は、それをどう見て、どう思うのだろうか、と。
本来面白味も無い私の日常から切り取られた投稿も、フィルターがかかって、「偶像」となって、知らないうちに大切な友人を斬りつけてしまうかもしれない……。
もう数年も会っていない友人の日常風景すら、簡単に知ることのできる現代。最近ではコロナ禍の影響も相まって、人と人との距離感って、捉え所の無い、フワフワしたものになってしまった気がする。距離感が掴めなければ、お互いを思いやるにも限度があるよなぁ……。
そんな事を考えてしまったら最後、私が実名で本音を書ける場所は、どこにも残っていなかった。かろうじて、たまに書けるのは、「#公園なう」とか「美味しそうにできたよ」とか。そんな当たり障りの無い、1行キャプションだけ。
私が読み手を意識して長文を書くことは無くなった。それは、唯一とも言える趣味だったのに。
そんな時、「かがみよかがみ」に出会った。
エッセイを読んで、書き手の心が、繊細に揺れ動くのを追体験した
峯岸みなみさんのエッセイを読んだ後、まずはかがみすと賞の作品群を読んでいった。スクロールする指は止まらず、次々とリンクを辿っていった。自分の経験と近いかどうかは、あまり関係がなかった。
エッセイを読んで、書き手の心が、一文ごとに繊細に揺れ動くのを追体験した。私にはできない、鮮やかでいて誇張のない言葉選びに感服し、コンプレックスの多種多様さに痛みを覚えるのと同時に、それらが全て、同じ時代に生きる同世代が抱えているものだと思うと、どれも他人事ではなく、自分の中にも含まれている物のような気がした。ペンネームがあるにも関わらず、むしろそれらはリアルに感じられた。
「かがみよかがみ」で、絞り出すようにして過去の経験を語るこの書き手も、普段は涼しい顔をして生きているのかもしれないと思った。私のように。Instagramで1行キャプションを書きながら。他人には理解されがたい、個々の痛みを抱えて。
私は昔も今も、エッセイが大好きだ。読むのも、書くのも
かなり前に遡って、私が長文を書く前、読み手だった頃。小学4年生の時、さくらももこさんの作品群に、学級文庫で出会った。私はそこで、エッセイと呼ばれる文学の面白さを知った。
中高生になってからは安野モヨコさんの書くウィットに富んだ文章が好きすぎて、美人画報シリーズの文庫本を順繰りに読み込み、3冊とも表紙がちぎれた(定期的にお風呂の中で読むからなのだが。それも未だに)。
私は昔も今も、エッセイが大好きだ。読むのも、書くのも。
私は12月で29歳になった。「かがみよかがみ」に投稿できる期間は、あと1年を切っている。そう思うと余計に、数年封じ込められていた「書きたい」という気持ちは溢れ出し、止めどない。
この泉がいつまで沸き続けるのかはわからない。もしかしたら、明日にはぱったりと枯れてしまうのかも。でも、30代になった先も、私はどこかでぽつりぽつりと、読み手を意識した長文……いや、「エッセイ」と呼べるようなものを、書いていられたらいいなぁと、今ではボンヤリと、思う。