「対岸の火事」だったコロナを、自分たちが見ることになって
2019年の終わりを迎える頃だった。
中国の武漢で新型コロナウイルスが蔓延したとテレビで報道されはじめた。感染者も爆発的に増加し、SNSで拡散された街中で人が突然倒れる映像はとても衝撃的な内容だった。
そう思いつつ「対岸の火事」と、どこかぼんやり眺めている自分がいたのも事実だった。
そんな中、ついに日本国内でも感染者がじわじわと増えはじめ、私の住む町で感染者が出るのも秒読みだ、そう不安を抱えていた時だった。まだ寒さの残る3月の初め頃だった。
「今日からこの病棟はコロナ病棟・感染症病棟になります」
看護部長・病院長は唐突に病棟に来てこう言った。
「まさか、本当にこの病棟で見るのか」と、朝一で挨拶に来た看護部長と病院長を前にしてスタッフの動揺はとても大きかったが、不満を言う猶予さえなく業務に追われた。
入院中の数十人の患者は、その日のうちに他の病棟に移動させた。他の病棟のスタッフからは突然の転棟に嫌味を言われるばかりだったが、そんなものを聞き入れる余裕などなかった。
病棟はすぐさま患者を受け入れるために工事が急ピッチで始まった。毎日夜遅くまで残業。患者を受け入れるために必死で働いた。家族に会うことが制限され、街中への外出も規制された。
病気になったら治療を受ければいい。そう思っていたけれど…
工事が進み、1週間程度で感染者が入院しはじめた。院内のマニュアルは整備されておらず、厚生労働省からも詳しい情報は殆どなかった。防護服の着脱方法も、YouTubeを見て勉強した。
毎日手探りで自分達の感染に怯えていた。スタッフのストレスが大きくなるのに対し、患者は、長期の入院で一週間を過ぎたあたりから少しずつ元気がなくなり、意欲を失う人、看護師や医師など医療従事者に暴言を吐く人、暴力を振るう人が増えていく。
咄嗟に逃げたくても防護服を着ているため外に出られない、助けを求めたいが外にいる看護師はすぐに入室できない。
病院の収益は大幅にダウンし、感染症病棟にいながら給料は10万円も減り、その状態は今もなお継続している。毎日ストレスに晒され、スタッフ間の歪み合いやトラブルも増えた。メンタルの不調で1人、またひとりとスタッフも少しずつ減っていった。
みんなで頑張ろう、そう言って励まし合ったあの頃はもう、遠い昔のようだった。
そのうち重症患者の受け入れ要請が増えた。新型コロナウイルスに感染し重症化する患者を何人も見てきた。
そこで、重症患者によく共通する状態や既往歴があった。
肥満、高血圧、糖尿病、高脂血症。テレビでよく聞く疾患名ばかりではないだろうか。
私の父親、祖父母、伯父がこれらの疾患を抱えていた。
看護師として普通に勤務している時は、血圧が高ければ血圧の薬を飲めばいい、血糖値が高ければ血糖降下薬を飲めばいい、そんな安直な考えしかなかった。しかし、彼らは皆、疾患に対して治療を受けていたにも関わらず、感染した時に重症化していた。
つまり私の父親らも、重症化する可能性があることに寒気がした。
皆感染はしたくないが、自分の生活を見直すことはしない。皆自分は健康だと思い込んでいる。誰も、自分が感染するとは微塵も、本当に微塵も思っていないのだ。
無理を言って取った4日間の休暇は、「学び」に費やした
私はこのままだと、本当に自分の健康も危険であると感じた。師長に無理を言い、4日間の連休を取った。自分の仕事を全く考えない環境に身を置き、自らをストレスから解放した。
インターネットからSNS、書籍から論文まで沢山の健康に関する資料に目を通した。学びたい事を存分に学ぶ時間、それが私に必要な時間であったと、今になって思う。
『予防医療』という日本ではまだ馴染みのない言葉に辿り着いた。
自分のなけなしの貯金を全て出し、ある協会に入りコミュニティに所属した。そこでは皆が自分の現状に疑問を持ち健康になるために学び、周囲にその輪を広げていた。
私の周りでは、予防医療の話をしても、オカルトめいた話だと誰も耳を傾けてくれることはなかったが、新型コロナウイルスにおいて私が目にした現状を踏まえて話すと少しずつ、本当に少しずつ、話に耳を傾けてくれる人が増えた。
誰も病気になりたいわけではない。病気でない状態は健康とはイコールにはならない。しかし、それをわかってくれる人は少ない。
健康であれば、人はバイタリティに溢れ、創造性が豊かになり、活力が漲る。日本人で、その状態である人はどれだけいるだろう。
何の夢も持っていなかった私が、「これだけは広めたい」と思った
――私が看護師になる前に遡る。
私は学生の時、将来の夢がなかった。なりたい職業も何もなかった。看護師になりたいわけではなかった。母親と祖母に勧められ、母親が願書を提出した大学を受験した。
大学4年間、興味のない看護学を学ぶことは苦痛だったが、やりたい事は見つけられなかった。4年間という時間をかけても夢が見つからず、付属の病院に就職した。
そんな私が、『予防医療』これだけは広めたいと強く思えた。
私の周りにいる人は少しでも健康に長生きしてほしい。だけどその方法を知る人は病院では見つからなかったのだ。
医師は大学では病気を治す方法しか学んでいない。病気になれば病院で治療してもらう、それが当たり前であり、疑問に思う人などほとんどいなかった。
どうやったら病気にならないのか?
私は今、その方法を学習し、習得そして拡散を試みている。
自分の意思で何も決めてこなかった私が、自分で新しい道を切り開き進もうとしている。自分のやりたい事、伝えたい事がこのコロナ禍で明確になった。
全ての人の意識を変えるのは難しい、しかし、自分が伝えられる事は何か、自分にも伝えられる事があるはず。今まで自分の人生について考えてこなかった私が、このコロナ禍という世界中で起こるパニックの中で、初めて夢を見つけた。騒然とする世の中で、自分の可能性を見つけた。
自分の知識と経験は武器であり、説得力になる。わずか4日間の休日が私を夢へと前進させた。
きっかけはどこにでもあるかもしれないが、夢は意外なところで見つかることもあるかもしれない。