私が身を置きたいと思うのは、こんな場所だったのかもしれない。
「先生。きっと、先生になってもどってきてね」
目の前の笑顔がまぶしい。
3週間を共に過ごした子どもたちが、手作りのプレゼントと手紙を渡してくれた。丁寧に彩られた表紙には、私の似顔絵が書かれている。
子どもたちが一生懸命に手を挙げてくれた授業。たくさんおしゃべりした休み時間。給食で出た嫌いなものを頑張って食べようとする姿。ほかの先生の授業を受ける子どもたちの様子さえも思い出されて、もうこの子たちと過ごすのは当たり前ではなくなるのだと、胸がきゅっと締めつけられる。
「3週間、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる私は、子どもたちの拍手を聞きながら、教師になる、と長いこと言えないままだった唇をぎゅっと噛み締めた。

周りの目を気にして教育学部に進んだけど、教師になんてなるものか

その頃の私は操り人形のようで、母や祖父母に怒られないような、文句を言われないような生き方をずっと探していた。しかし、絶対の正解なんて見つからなくて、かつて褒められたことが今では悪とされて。

「教育学部にします」
元々子どもが好きだった。母が子どもたちと関わる姿を見て、自分もこうなりたいと思った。子どもの成長過程に携わりたい、子どもたちがより幸せに人生を歩めるよう手助けがしたい。
理由なんて後付けだった。ただ私は、周りの誰もが納得する進路を提示しただけだ。
本当は、文学部で日本文学について専門的に研究したかったけれど、教育学部で国語を中心に学ぶことにした。もちろん、家族は喜んで賛成してくれた。

将来は何をするの。
文学部なんか行って、卒業するときには困るのよ。
資格のひとつも取れないなんて、大学に何をしに行くの。

高校生の私はそんな圧に耐えられず、楽な方へ、穏やかな道を選んでただひたすらに進んでいた。
免許は取る。けど、教師になんてなるもんか。そんな小さな反骨精神が私のよりどころだった。

やる気の出ない教育実習が終わった先に、私には何があるのだろう

それまでの人生で大きな挫折を経験したことがなかったのはおそらく、自分の力量を把握して、安全策を常に取り続けていたからだ。
幸い、勉強は苦手ではなかったから、実家が貧乏な中でもさほど金銭の心配をすることなく、大学に通うことができた。しかし、やりたいこともないのに仕送りをもらうのは罪悪感に押しつぶされてしまいそうで、アルバイトと奨学金だけで、生活費やその他のお金を賄うことだけは譲らなかった。
大学ではそこそこに学び、そこそこに働き、そこそこにハメを外し、そこそこに毎日を過ごしていた。
そうするうちに3年生になり、教師になろうという気持ちはすっかりなくなっていたので、なんとなく就活を始め、インターンシップに行き、自分が将来やりたいことを初めて考え出した。

「長いよねえ」
卒業に必要とはいえ、将来なりもしないのに3週間……と、同じく一般就職希望の友達と、牛丼をつつきながら愚痴っていた。クーラーがガンガンに効いた店内で、つゆだくで、と勇気を出した牛丼はこの世の正義、全てにおいて正しいとさえ思えた。
実習の大変さは先輩から嫌というほど聞いていたし、コロナウィルスの影響で現場は余計に大変だとわかっていたから、さらにやる気は出なかった。
「ま、ぱっとやってさ」
実習が終われば、夏インターンに参加できる。私たちの本番はまだ先だ。友達はそう言った。
「とりあえず乗り切れば、ね」
終わった先に何があるのだろう。行きたい業界もない、憧れる企業もない。
私、何がしたいかまだわからなくて。
営業ってずっと憧れててさ、と笑う友達には、言えなかった。

実習期間は、目の前の子どもたちや将来、自分のことを真剣に考えよう

猛暑。
お盆を過ぎても、盆地のこの地域は真夏のような太陽が顔をのぞかせる。時折、肌を焼くような暑さの中にさらりとした風を感じ、季節の変わり目が近づいていることを知る。
主体性もないけど忙しく毎日を過ごすうちに、季節は移ろうだろう。短い秋があって、木々は葉を落として。3ヵ月もすれば初雪が降る。自転車が使えないとぼやき、徒歩移動に慣れる頃、雪がとけ、私たちはすぐに4年生になる。

やっていけるだろうか。
それなりに生きる道を見つけられるだろうか。

震える手で、黒板に名前を書く。
「これから、よろしくお願いします」
きらきらと目を輝かせる子どもたちと目が合った瞬間、安堵のような罪悪感のような、期待のような。全てがないまぜになった感情が湧き上がった。

私は、この子たちに何を残せるだろう。

まずは3週間、ほかのことは考えずに目の前の子どもたちと向き合う。その中で、将来や自分について、真剣に考えてみようと決めた。
残暑の中、涼しい風が教室のカーテンを揺らした。