「繰り返し行われる毎日。きっと昨日と今日と明日が入れ替わっていても自分では気がつかないだろう」。ドラマか、歌詞か、漫画か、本か、どこかで聞いたことばを思い出した。
よくも悪くも何事もなく、一日を終えた日の帰り道でふと、思った。毎日行ける仕事があり、それなりに仕事をしていればお給料が入る。この上なく自分は運がよく、ついていると思う。ありがたいことであることは、重々承知している。
しかし、ときたまあまりにも変化のない生活に不安なのか、何なのかわからないが、「これでいいのか」と思うときがある。
「将来」が漠然と現実になり始めた中学生から、「夢」ではなくなった
とくに子どものときは夢を大きく持ち、いろいろな仕事をしてみたいと言っていた覚えがある。幼稚園の卒園式、小学校の作品展覧会、卒業式。将来なりたい夢を発表したように思う。
しかし、いつからだったか「将来」が漠然と現実になり始めた中学生から、「夢」ではなくなった。現実的に考えて、会社に所属し、自分で生きていけるだけの給料をもらわなくてはならないことをなんとなく理解した。
就活が始まるとそれは地続きで、このまま自分が生きていく上では避けては通れないことになった。とにかく会社に就職して、自分が生きていくうえで必要な給料がもらえるようにしなくては、と。
「なりたい自分」ではなく、「ならなくてはいけない自分」「社会が求める自分」を追い求めるようになった。もしかしたら、「夢」など最初からなかった自分が、自分の将来を考えることを放棄した結果だったのかもしれない。
音楽を聴き帰り道を歩きながら、「自分の人生」について考えてみた
その日は、そんなことをふと思ったのだ。自分の人生について、なんとなく考えてみようと思ったのだ。音楽を聴きながら、帰り道を歩く。感慨にふけるには最高のシチュエーションと無意識に思ったのかもしれない。ドラマのワンシーンのようだ、と。
歩きながら、自分の人生を考えてみる。困ったことに、自分の人生、それほど見返すような特徴的な人生ではないことに気がつく。
幼稚園から、小学校、中学校、高校、大学、卒業して就職。これではドラマのワンシーンのように感傷的にはなれないではないか。
それではと、自分がしたいこと、なりたかった自分とはなにか、と考えてみる。すぐには思いつかなかった。が、まあ、少しは思いついた。
私は自分の人生の大切なことに対して、感情が「素直」に出てこない
アメリカに住みたい。ときと場所を選ばない仕事がしたい。毎日同じ場所に同じ時間に行くのは、窮屈だ。大学で専攻したことをもう一度、どこかで活かせるようにしたい。思いついてはみたものの、それを実現できる仕事と、その仕事につけるスキルが自分にはないことを思い知る。
日々の生活のなかで、少し立ち止まって考えて自分が改めて知ったことは、自分が自分の人生において大切なことに対しては、感情が素直に出てこないということだ。感情が表情にすぐ出るから、感情が豊かだと思っていたが、大切なところは感度が悪いらしいことがわかった。
それは毎日同じような日々を過ごしてきたからか、自分がその大事な部分を考えることを避けてきたからか。はっきりとした原因はわからないが、この短い帰り道の間に思い知った。
「歩みを止める」というにはだいぶ小さいかもしれないが、ときたま自分の人生について正直になって考えてみることにしようと思う。正直になる場面がないと、人間、正直になる方法を忘れてしまうらしい。