辞めたら楽になれる。
でも、辞めたら無職になる。
辞めたら軽蔑される。
辞めたい……でも怖い。
辞めた時が怖い。辞めた後が怖い。
一度私は立ち止まった。そして決めた。
全てをひっくるめて幕を閉じること。
やっと辞めれた。
私は10年間夢だと追いかけた仕事を1年で辞めた。
夢だった教員になれ、キツくても「まだやれる!」と奮い立たせる毎日
私は小学6年生の時に教員になると決めた。その夢を追いかけるために勉強し、教育学部のある大学に通い免許を取得し、教員となった。
初めての職場、不安な気持ちもあった。でも、自分のなりたい仕事につけた。精一杯やること、逃げずに立ち向かうこと、力を出し切ること、仕事としっかり向き合った。
初めて教える子どもたちは元気いっぱいの3年生。毎日振り回されながらも全てが新鮮で学びの多い日々となった。
放課後は自分の受け持つ教科の授業準備に会議に学校運営のための文書の作成、サービス残業を毎日何時間もしても足らず、家に持ち帰って仕事をした。
キツイと感じたが「まだやれる!まだやれる!」と自分を奮い立たせた。
理科の授業準備のために、チョウの幼虫を20匹近く飼育し、調べ上げた。観察記録を毎日し、羽化する日を予想できるまでになった。そして羽化の様子を朝5時に撮影して子どもたちに見せた。
食い入るように見て感動している子どもたちを見て、やってよかったと思った。
若いから、親が教員だからと仕事を押し付けられ、心も体もボロボロに
しかし、教員という仕事は甘くなかった。
若いんだからと力仕事が山ほど舞い込んだ。
親が教員だからと上司の仕事をいくつも押し付けられた。
監査の前は真夏の暑さの中、倉庫で備品点検、足らない備品は校内中を探し回った。
かなりしんどかったが、私はこれも経験だと逃げずに取り組んだ。
特に辛かったのが会議だ。誰かが誰かを悪く言う。意見がまとまらず、沈黙が続く。力のない上司が泣いて進まない。話がまとまらないまま2、3時間会議が続く。その間74回すいませんを聞かされた。謝ったところで何も進まないし解決もしない。
そして極めつけが主任から提案だった。
「わか、あなたがやりなさい。あなたの方が文章書けるわ。上司の名前で、中身だけあなたが全部書きなさい」
大きな研修の指導案の中身を、教師1年目の私が全て書くことになった。
それも私の名前ではなく、上司の名前で。
自分の仕事をして、会議にも出て、上司の指導案を書く。睡眠時間は平均3時間を切った。
誰も手伝うことはなかった。上司は「わかは親も教師でサラブレッドだもんね」と言うだけで何もしなかった。
主任は「あなたならましに書けるから」と押しつけたら押しつけたまま。
気持ちは強く持っていたが、体がついてこなくなった。肌が荒れ、腰を痛め、地元の病院で2回も紹介文を書かれた。地元の病院では手に負えない状態だった。
予防接種をしていたのに、抵抗力が落ちたため、おたふくにもなった。高熱で自宅で意識が混濁し倒れ、母に救急車を呼ばれる手前までいった。
なんとか研修の指導案は提出できたが、私はボロボロになった。
このまま続けたら私の体は…希望調書を前によぎった選択は「辞める」
でも、子どもたちだけは私のことを好きでいてくれた。
「みんなは鉄でね、先生は磁石だねぇ。だって先生の周りにみんながくっついていくんだもん!」
教えた知識をもとに私のことを想ってくれていた。嬉しかった。
なんとか1年を終えようとした時、希望調書が渡された。
継続と書こうとした時に手が止まった。
このまま続けたら、私の身体……もたない。
お金を医療費に1番注ぎ込んだ1年だった。
辞める。頭の中によぎる選択。
辞めたら親に怒られるかもしれない、友だちに「何で!」と言われるかもしれない、いろんな葛藤が渦めく中、私は退職を選んだ。
離任式の時に、子どもたちが私の前で何人も泣いていた。
ごめん……ごめんね。もっとちゃんと自分の仕事できたら……胸が張り裂けそうになった。
主任に「あなたなら担任でもなんでもやっていけたのに」と言われた。
頑張ってきたことは無駄ではなかったと思った。
でも、私は立ち止まって、辞める選択をしてよかったと思う。
だって今私は、前よりも自分のことを大事にして幸せに過ごせているから。