「あなたのしている努力は何の意味もない」
監督からそう言われたとき、私は「がんばる」から距離を置いた。

全治二週間の怪我をしたとき、バスケをしなくていいと嬉しくなった

姉がきっかけでバスケットボールが大好きになり、中学校でバスケ部に入り、バスケをすることを待ち遠しく思っていた小学六年生。先輩が少ないことから、途中出場だがバリバリ試合でシュートを決めていた中学一年生。無事バスケ部に入部した。一年ながらきっと輝いていた。バスケがとにかく楽しくて大好きだった。

先輩の引退を待ち望み、早く自分たちの代になれと願う中学二年の夏。そんなこと思っていたからきっとバチが当たった。
怪我ではない。ただ単純に、思うようなプレーができなくなった。試合中シュートは入らないどころか、打つことさえできない。役立たずになった。

そして全治二週間ほどの怪我をした。心のどこかで、バスケしなくていいんだと喜んだ。補欠も全部怪我のせいにできる。頭の中は常に悪魔がいた。
怪我が治って私はもう一度立ち直り、朝と夜、誰よりも早くきて、遅く帰ってシュートを打ち続けた。シュートは打てば打つほど、感覚が身に付いて、入るようになるのは間違いない。残ってシュート練をするのも全く苦ではなかった。むしろ楽しかった。

「あたなのしている努力は何の意味もない」言われた言葉に流した涙

ああやっとバスケが好きになってきたかな、なんてことを思ってたら、監督から言われた。
「あなたのしている努力は何の意味もない」
何年も生きていないが、生きてきたなかで一番泣いた。我慢したけど涙が溢れた。これは悲しい涙なのか、悔しい涙なのか、よくわかんなかった。

でも私はこの言葉を聞いた瞬間、「がんばる」から距離を置いた。あの言葉を言われてからは、一度も残ってシュート練をすることはなかった。

「がんばる」から距離を置いてからは、バスケを好きになることもなかったし、補欠から這い上がることもできなかった。あんなに待ち遠しいと思っていたバスケが、こんなにも嫌いになるなんて思ってもいなかった。「がんばる」から距離を置いたまま中学校の部活に幕を閉じた。

でも何故か、私は高校最後のバスケ部引退試合で、チーム1の得点率に輝き、バスケ人生最高の輝きを見せた。輝けたのは、「あなたのしている努力は何の意味もない」の言葉があったから。

距離を置く前の「がんばる」が後から報われることもある事に気付いた

私は高校でもう一度、「がんばる」と向き合った。努力していれば報われると思っていたあの頃、努力している姿を見せればレギュラーメンバーに戻してくれると思っていたあの頃。

シュートを入れたい、試合に勝ちたい、のではなく、努力してるのだから、レギュラーに戻して。そんな悪魔な私を監督はきっと見抜いてた。だからあの時、「あなたのしている努力は何の意味もない」そう私に声をかけてくれたんだと思う。

そして、そんな努力はもちろん報われるわけもない。そう気づいた高校生。気づくのが遅いんだ全く。

私はもう一度、誰よりもシュートを打った。今度は自分のためではなく、チームが勝てるように。チームメイトやマネージャーにもパスを出してもらい、試合を想定したシュート練習に変えた。

最後に輝けたのは、チームメイトが助けてくれたから。助けてくれたチームメイトに、キャプテンとして引っ張っていくことができてよかった。
「がんばる」から距離を置いてもいい。そのときの「がんばり」が後から報われることもある。距離を置いて気づくこともある。「がんばる」から距離を置いても、人は歩き続けることができるんだって。

私は絶望して歩みを止めた。それでもまた歩むことができたんだ。