帰りたい、帰りたくない……故郷に抱く思いは十人十色だろう。
年を重ねるたびに、その感情は複雑になっていき、自分ではどうにも抱えきれないものにもなっていくのではないのだろうか。かくゆう私もその1人で、思い返せば単純じゃない感情を抱き始めたのは中学2年ごろの事。
農家で育ち、幼いながらも「後を継ぐ身」と、どこかで思っていた
私達一家は私が小学校に上がるタイミングで父の実家に根を下ろした。
祖父母は農家で、私の両親は外に働きに出ていた。当時は本当に田舎で、家の周囲は田んぼや畑。でも近くにそこそこの必要な施設はそろっていたので不自由に感じることはなかった。
夏休みは午前中、宿題をしながら祖父母が栽培していた茄子の出荷作業を手伝い、午後はプールに行くか冷房の効いた図書館に行くのが定番だった。
農家といっても、専業だったのは祖父母が子どもたちを育てていた時まで、年配になってきてからは無理ない範囲での規模をやっていた。両親も定年まで働いて老後は自分たちが食べる範囲の量を栽培する程度にしていくことを想定していたと思う。
祖父母以外は片手間だが農作業の手伝いをすることはままあり、毎年ゴールデンウイークには茄子の定植作業を家族総出で行っていた。周辺の他の農家さんからは「子や孫まで手伝っているのは珍しい」といわれることもあったようだ。
家のことを手伝うのが当たり前、自分たちが食べるものを残すなんてありえない。そんな価値観が形成されていったのは紛れもなく育った環境だった。
私は幼いながらも「自分は後を継ぐ身」と、どこかで思っていて、頭の片隅には自分の将来と家の事を常にリンクさせながら考える癖がついていた。
最初は関係ない職業に夢を抱いたが、漠然と「女一人で専業で農家は無理だから自分には何か並行して手に職が必要」と中学生になるころには1本の道筋が見えてきた。次第に、食べることに関係する「管理栄養士」の資格を取ることを1つの目標にしていた。
地域全体の大規模開発計画が持ち上がり、描いていた未来は否定された
別に億万長者になりたいとか、規模を拡大して大成功!なんて大きな夢や理想はなかった。
地元で結婚して、本当に平凡に家族と生きて行くことを想像していた。
それが、あっさりと否定される日が来るなんて誰が予想しただろうか。
私の実家を含めて地域全体の大規模開発計画が持ち上がり、農地や家の強制収用が行われる事になった。詳しいことは私の年齢では当然のように説明などなかったが、今の生活が脅かされる事だけは空気で感じ取っていた。
開発に該当する世帯は商業施設、道路などの建設に必要な土地を半強制的に売買契約か、代替え地契約を迫られた(もちろん交渉が前提で行われた)。
最後まで祖父は抵抗したようで、当時の町長(市長だったかも)が夜に家に来たことも記憶している。私は塾から帰宅してその場面に遭遇したのだが、挨拶をしないで無視をすることで一つの意思表示をした。「私は受け入れるつもりはない!」と、胸中は叫んでいた。
何もできないとわかってはいたが、何かはしたくて中学2年の夏休みに募集があった絵画や作文のコンクールに自分なりの主張を表現して出品したこともあった。皮肉にも絵画は佳作を取り、本当に複雑な気持ちで素直に喜べなかった。
実家と距離を置き落ち着いた頃、新たな現実が足元をまたすくう
それから、3年になってからは本格的に自分の将来と向き合ないといけない時期にぶち当たり、現実を知ってしまった私は悶々とした毎日を過ごし、夏休み明けには学校に足が向かなくなってしまった。
家のために使命感を持って生きていくことを決意していたのに、梯子を外されてしまったような心境だった。何のために生まれてきたのかわからず、見えない未来が真っ暗にしか感じず自死を考えない日はなかった。
このままではいけない、どうにかしないと……一度実家との距離を置く必要があると両親と考えて私は県外の高校に進学した。通学には遠い私立の学校で寮生活を3年間送ったのだが、そこは私には本当に合っていたようで、まるで生まれ変わったように生き生きと毎日充実していた。長期休みしか実家には戻らない生活になって、時間と距離を置いたことで少し思考も落ち着き、現実を冷静に受け止めることが高校卒業時には出来ていた。「全部がなくなったわけではないから上手く付き合っていこう」と思えるようになって大学で管理栄養士資格を取るために進学した。
大学も、充実するだろう…と思っていたら、いろいろな事が重なり、昔の事がフラッシュバックすることが多々あり、冬場は鬱状態を毎年のように繰り返してしまった。それでも実家に戻る事を頭の片隅に置きながら何とか最終学年になった。しかしその年の夏、今度はリニアのルート予定地に実家周辺が引っかかる現実を目の当たりにしてしまった。今度はご近所さんもかなり減り、自分の家の周辺の畑や、蔵、家も取り壊しか移動、移転する事になりそうだと知った瞬間足元がすくむ感覚になった。
手放したら楽なのに、捨てきれない場所。この感情は一生整理できない
「ああ…またか」絶望しかなかった。国家試験の勉強をしないといけない時期なのに、何も出来なくなった。いよいよ危なくなって教授達の面談を受けるまでに。「でも、どちらか選ばないと(今頑張るか、諦めるか)」そう、冷たく言い放たれた。自分の中で「自死か受験」の選択肢しかなかった。リニアはJRと国との事業。そして国家試験も国との戦い。なら負けるか!と、無理やり理由をこじつけして試験勉強を年明けから取り組んだ。もともと学力は学年トップクラスだった事もあり、2か月半ほどの勉強でなんとかなった。よく合格したなと思いつつ、合格特有の嬉しさは半減以下だった。
思い描いた人生の道筋をことごとく奪われて、どう使えばいいのかわからなくなった資格を持て余し、職を転々として今日になる。いい年にもなったが、いまだに実家との距離感がつかめなくて、選ぶことも、捨てることも、腹を決めることも出来ていない。実家から少し離れている身内の空き家で基本生活しているが、やはりどうしても実家が気になって結局半分2拠点生活をしている。
手放したらどんなに楽だろう。でも捨てきれない場所。
きっとこの感情は一生整理できないだろう。