私は幼い頃から、「あんたは神経質で面倒だ」と言われて育った。明るすぎる部屋や重い布団、鬼ごっこで追いかけられることが苦手だった。宿題は、納得する字が書けないと何度でも書き直し、泣きながらやっていた。
自分でも面倒な奴だと自覚はあったが、当然傷ついた。しかし勝気な性格も持ち合わせていたため、「だからなんだ!」と強がって、強がり続けて大人になった。
私は、「繊細さん」と言われる「HSP」という気質の人間
ただ、大人になった今、あの頃の言葉をよく思い出す。どうして私は、面倒なのだろう。あの頃よりも、より私を傷つけてくる言葉になっていた。
そんなとき、繊細さんと言われる「HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)」という気質のことを知った。ネット上のセルフ診断では、ほとんどの項目にチェックが入る。
なんだ私はこういう気質の人間だったのか。神経質と繊細とでは、言葉の持つポジティブさが違う。
自分の気質を自覚して、なんだか気が楽になったように思えた。
自分自身のことを理解することはとても大切だ。そして、できれば家族や友人など、大事な人たちとも共有したい思った。
けれど、それってどんな意味がある?と躊躇した。「HSP」であることを多くの人に向けて自己申告することに、違和感を覚えたのだ。ほっとしたのは、一瞬だった。
そして私は、家族や友人には伝えず、一緒に暮らしている恋人にだけ打ち明けることに決めた。それでも、「私の神経質な性格はHSPというものの一部らしい」と少々曖昧な言い方で伝えることがそのときの精一杯だった。
初めて「HSP」の言葉の意味まで知る人と出会い、救われた心持ちに
恋人に打ち明けても尚、違和感の理由はわからないままだった。正体不明のモヤモヤを抱えたまま、数年が経った。
そしてその数年間、自分以外の「HSP」という気質の人に出会うことがなかった。
しかしあるとき、自分の周囲で初めて「HSP」という言葉とその意味を知っている人と知り合った。初めての出会いに、私はとても救われたような心持ちになった。恋人以外の誰にも話したことがなかったため、ほかの「HSP」さんはどんなことを考えているのかずっと知りたかったのだ。
その人と話す機会があり、“自分は「強度のHSP」なのだ”と私に言った。「HSP」さんは周囲の人の気持ちを察することができるし、よく気のつく人が多いのだと教えてくれた。
そして、他人が自分と似た悩みを抱えていても、自分の方が辛いと感じるのだとも言った。
私の中に再びモヤモヤと浮かび上がってきた気持ち。繊細さってなんだろう。
繊細さを広く自称すること、そして周囲との違いを主張することは、私の思う“繊細さ”とはまた違ったものなのかもしれない。ますます「HSP」というものがわからなくなった。
繊細な人は周囲ではなく、そこで生じる自身の心の変化に敏感なのでは
繊細な人は周囲の変化に敏感なのだと、気の使える心優しい人が多いのだと「HSP」に関する情報を集めているなかで知ったことだったが、いまいち消化しきれていなかった。
繊細な人は、周囲の変化ではなく、それによって生じる自分自身の心の変化に敏感なのではないか。
独りよがりな繊細さが周りを巻き込んで、知らぬ間に誰かの負担になっている可能性もあるのではないか。そのことに気づかずに「HSP」を広く自称することは、危ういように思えた。
もちろん、自己申告することは自分を知ってもらうための有効な手段である。
ただ、その行為の危うさや本質を一度考えてみるのもいいのかもしれない。
「HSP」という気質は、こういうことも含めて面倒なのだとハッとする。そしてこれこそが、定義のしにくい「HSP」気質というものの不確かさであり、愛すべき面倒さであり、奥深さなのだとも思う。
こうして考え悩んでいることこそ、幼い頃言われた神経質で面倒な性格を証明しているのかもしれない。
それでもきっといつまでも考える、「自称HSP」の正体を。
本当の「繊細さ」ってなんだろう、ということを。