いったい何年、こんなことをしているだろう。いったい、いくらつぎこんだだろう。

英会話スクールにTOEIC対策、英文法、英単語などの各種書籍。英語関連のものには目につくまま、かたっぱしから手を出した。

それなのに読破した英語学習に関する本は一冊たりともなく、勉強も3日坊主の繰り返し。10年以上も英語を話したいともがいているのに、高校生、いや中学生の頃から英語力が上がっている実感が一切ない。

英語学習の目的が、「自己否定」を見ないようにするものになっていた

今思えば、膨らむ自己否定を見ないようにするのが英語学習の目的になっていた。努力は続けている、そう自分に言い聞かせるために。

そんな時に再会した彼女から、英語についてのレッスンを二つ返事で受けることにした。提案されたプランが、端的に言うと「英語を通して世界を見てみよう、知ろう」というもので、英語が話せるようになる、ということだけに重きが置かれていなかったからだ。目から鱗だったが、ワクワクした。

そして、レッスンを受けるうちに思い出した。それは子供の頃に思い描いた夢。

私は、歌手か女優になりたかったのだ。世界各地で公演したり映画に出演したりする。そして、ステージでスピーチをしたりインタビューに答えたりしたかった。自分の思いを伝えたかったんだ。

アカデミー賞の受賞式でレオナルド・ディカプリオに会ったら、何を彼に聞きたいだろう。出演作についてどんなふうに感想を伝えようか。その時に英語を使えたら、スムーズなはずだ。

きっとこんなところに、英語学習の初心があったのだと思う。しかし、このワクワクした気持ちをいつの間にか忘れてしまい、思ったように英語を操れないところだけにフォーカスしてしまっていた。

英語学習という「出口が見えないトンネル」を歩き続けるのを止めた

そのことに気がついて、図らずも私は、英語学習という出口が見えないトンネルを歩き続けるのを止めることができた。代わりに、ミュージカルや映画、コンサート映像を観る時間を新たに作った。時にはソファーに立ってミュージカル俳優のごとく歌い、演じてみた。

ハリウッド俳優たちのインタビューも見た。自分はインタビュアーの設定だ。はじめの挨拶はなんて言おう。表情はどうだろうか。

見慣れないジェスチャーについて調べたり、彼らのファッションやメイクについて興味がわき、真似してみたり。もし彼らと仲良くなることができ、「ホームタウンを案内してくれ」と言われたら、どこに連れて行こうか。このお店には絶対に連れていきたい。

マナーの違いについてビックリするだろうか、なら、こんなふうに説明したらいいかもしれない。ホームパーティをやることになるなら、こんな器を使いたい。こんな絵を飾ったらいいんじゃないか。

私の生活は確実に変わっていった。世界が今までと180度違って見えた。言語以外のことばを持てた気がしたのだ。

いや誰しも皆、もうすでに様々なことばを持っているのだ。ここでいうことばとは、自分を形作る要素のひとつだ。

もしかしたら、コンプレックスに自分にとって大切な何かが隠れている

言語は、ことばの代表であるかもしれないが、言語がすべてでは決してない。どの単語を使うのか、その選択。それから声色、スピード、表情、しぐさ。話すことに留まらず、佇まいから感じることだってそうだろう。

趣味志向、センス、持っている哲学。そうやって人は、世界に一人しかいない自分の世界を紡いでいくのかもしれない。

気がつけば、自然と英語も身近になっていた。情報収集する時に、英語サイトも参照するのが当たり前にできるようになった。

自分が本当に知りたかった世界を知る喜びは、主体的に生きていくための大きな原動力になる。こうして私は、英語に関係することもしないことに関しても、フットワークが軽くなった。だからこのエッセイも書けたのだと思う。

コンプレックスだと思うところに、もしかしたら自分にとってとても大切な何かが隠れているかもしれない。遠い過去に忘れてきてしまった、かなえられなかった思い。夢。

実際に私が今から歌手や俳優を生業にすることは恐らくないだろう。だとしても、それを掘り起こしてみることは、無駄ではないと断言する。

人に話すのは恥ずかしい場合もあるかもしれない。だからこっそり、誰にも言わないで進めよう。秘密の花園は、自分の中にある。