何の気なしに見ていたバラエティ番組。あるタレントの放った言葉に私は目を見開いた。「今後は自動翻訳がどんどん発達するから、もう言語を学ぶ必要なんてないんですよ」
 そう言って専用の機械やアプリの話をし始めたのだ。ショック、というか悲しい、憤り、いろんな感情がないまぜになってそのまましばらく考えてしまった。

大学では外国語学部に進学して、あえて英語以外の言語を学んだ

 技術革新、とやらのおかげでアニメや映画であるような瞬時に完璧な自動翻訳ができる日も、いつかきっと来るだろう。でも便利さと引き換えに、自分自身が言葉を使って何かを感じる感覚を失うこと、そもそもそれに気づかずに過ごすようになってしまうのは、無味乾燥すぎはしないか。
 なぜここまで自分の中で引っかかるのか。それはある意味、私の好きなこと、そして同時にコンプレックスに思っているところから来るのかもしれない。
 高校時代に一番好きな教科は英語で、もっと色々な世界を知りたいと思い、大学では外国語学部に進学してあえて英語以外の言語を学んだ。同学年の半分以上は、1年の長期留学をする中、私はその選択ができなかった。お金のこともあったり、いろいろな状況の中で優先順位が下がってしまった。
 卒業後は内需しかない業界の日本企業に就職し、すっかり異国の文化や言葉に触れるのは人並み程度になってしまった。入社したころは自己紹介で出身学部を伝えると「もったいない」「関係ない仕事になんでついたの?」と聞かれることもあり、その度に居心地が悪く、一方で外国で活躍する友人たちがうらやましくなり、でも自分で捨てた道だし…ともやもやするという悪循環を繰り返していた。

「文化、歴史的背景がわかって本当のコミュニケーションになる」

 そんな日常の中でも、あのバラエティ番組の発言を聞いた時に思い出したのは、大学時代の外国人教授の言葉。授業の中で彼女は、ある現象、日本でいうとことわざのようなひとつの単語について説明をしてくれたときの言葉だった。
 その時間は結構長くて、数分は話していたと思う。それでも、その概念を完全に日本人に伝えることが難しいことを彼女は知っていた。そして「たった一言をちゃんと伝えるために、これだけ他の言葉を尽くさなくてはならない。ある言語を文法的に理解するのはもちろん大切だけれど、それ以上に相手の国や地域の文化、歴史的背景もわかっていないと本当のコミュニケーションはできない」と私たちに話した。
 一昨年頃に出合ったのもそんな教授の言葉を想起させる1冊だった。その本には直訳するのは難しい、世界の言葉を集めた表現がひたすら載っている。例えば、ピサンザブラ(マレー語)―バナナを食べるときの所要時間、ティーマ(アイスランド語)―時間やお金があるのに、それを費やす気持ちの準備ができていない、ウブントゥ(ズールー語)ー本来は、『あなたの中に私は私の価値を見出し、私の中にあなたはあなたの価値を見出す』という意味で、『人のやさしさ』を表す……。
 検索エンジンで原語表記の”Ubuntu”を入力してしまうと途端に「親切」と表示される。この2つの漢字の中に、本来の意味は全部おさまっているのだろか?

発信の仕方や受け取り方で誤解が生じることは、大人でも日常茶飯事

 やっぱり、言葉って難しい……いや、面白い。日本での強制的な英語学習が押し付けてくるイメージのように、言葉は数学みたいに=(イコール)で結べるものばかりではないはずだ。私たちも、生まれたときから使っている日本語を一字一句解説して教えてもらったというよりも、会話や文章の流れの中で幾度となく触れていくうちに自然に概念を理解するーそれこそ体得してきたことの方が多かったのではないだろうか。
 誰かに話せるわけでもないのに、ここまで色々と思いを巡らせてしまったあとに、はたと気づいた。表面的なものではなく、相手の育ってきた環境や文化、大事にしていることを理解して対話をすることが大事なのはきっと日本語でも同じ。発信の仕方や受け取り方で誤解が生じることは、いい大人になっても日常茶飯事だ。
 だから私はこれからも、自分に向けて話される言葉は相手の心をのぞき込むつもりで聴きたいし、発する言葉にはイメージしていることがブレにくい表現を使いたい。自分たちは長い付き合いだから、お互いわかりあっているし大丈夫、なんて慢心を起こさないように。外国語を学んでいた時のそんな気持ちを思い出した。私が20歳前後の貴重な時間を費やした「言葉」を学んだ日々はきっと無駄ではなかったと、少し自信がわくような、わくわくした気持ちが顔を出してきた。
 これからはその感覚を大事にしながら、映画や本で世界の言葉にふれて、新たな発見をすることを小さな楽しみにしたいと思う。

参考:
タイトル/翻訳できない世界のことば
著/エラ・フランシス・サンダース
訳/前田まゆみ
発行/創元社