「私が見たいのはこんな風景じゃない」。見慣れた幹線道路を走りながら、そう感じていた。
何もかも上手くいかないように感じた20歳の夏、自転車の鍵1本を握りしめ、家族に気づかれないようそっと家を抜け出し、西に向かって自転車を走らせていた。
このまま西へ走り続ければ、いつか私の見たことのないアジアやヨーロッパの国々にたどり着くだろうか、そんなことをぼんやり思った。それなのに、目に入るのはいつもの景色で、走れば走るほど、息が苦しくなり脚が痛くなってくる。
大学に入り友人に劣等感を抱き、バイトも上手くいかなくて悔しかった
家から3キロほどの駅前には、ショッピングモールやコンビニが立ち並んでいた。休憩してトイレを借り、水道をひねり、そこから出てくる綺麗な水を見て、なんと恵まれているのだろう、とまたぼんやり考えた。
中学生のころからの、海外で貧困を削減するために働きたいという夢が、この時期ほど遠く、不可能に感じていた時期はなかったように思う。大学受験に失敗し、親からは罵られ、みじめな気持ちで通う毎日。大学に通うための支援が望めるような経済状況ではなく、今思えば機能不全家族だった。
一方で大学では、それまで会ったことのないような海外育ちの友人を前にして、ひたすら劣等感にさいなまれていた。さらに周りの友人は、学生生活を謳歌していた。バックパッカーや留学、運転免許を取ったり、サークル活動をしていたりしている人たちが羨ましく見えた。
やってみたいバイトの面接を受けてもなかなか受からず、お金もなくひたすら時間だけが過ぎていく、そんな夏休みを経験した。
悔しさをバネにするまでに少し時間がかかってしまったものの、いくつもバイトの面接を受けてなんとか働き口を見つけた。さらに、1年後には長期留学にも行き、大学院にも進学した。
東日本大震災から6年後、私は岩手県大槌町を訪れて驚いた
東日本大震災から6年となる2017年の2月、神戸から来た大学院生のグループの一員として、私は岩手県大槌町を訪れていた。ただでさえ寒さで心が縮んでいくというのに、目の前に広がるのは土とコンクリートばかりの殺風景な景色だった。
津波で多くを失った上、6年経っても町の建設が遅々としている様子に驚きを隠せなかった。それだけに、迎えてくれた地元の方たちの笑顔と温かさが一層身に染みた。
私は神戸で生まれ育ち、阪神淡路大震災のことはあらゆる話を大人たちから聞かされて育った。とはいえ当時の私は2歳で記憶はほとんどない上、学校での避難訓練を除けば、大人たちの話はどれも十人十色の苦労話ばかり。そして、多くの場合は「それでも神戸はこれだけ復興した」という自負で結論づけられた。
私にとって、災害について分かることがあるとすれば、その瞬間にならないと何も分からないし、備えがあっても役に立たないと思っておいたほうがいい、ということだった。
3.11の後、友人の多くが学生ボランティアとして現地へ向かったが、体力も精神力もない自分が行っても役に立たないだろうとしか思えなかったし、興味本位で行くのは何とも気が引けた。
だから、訪れるのに6年もかかってしまった。経験や状況は全く違うというのに、「神戸で生まれ育ちました」というだけで共感の目を向けられることにすぐに気づいた。
災害現場を実際に目で見て、自分の「生まれ育った地元」に思いを寄せる
私たちを迎えてくれた一人一人の方の目を見て、この6年どんな経験をしてこられたのだろう、と思いを巡らせた。震災当時の私には何もできなかったし、今も何もできないちっぽけな自分だけれど、災害について考えて、起きていることをよく見ようとすることはできるし、それは間違いなく自分が神戸で育ったからだった。災害は、慣れ親しんだ景色を一変させる。
地元に帰り、神戸の街が一望できる大学の正門前でバスを降りて、目の前の建物に入り、3階まで上がる。私たちの研究科の1階はそこからまだ坂をのぼったところに位置している。通る時に必ず、私の生まれ育った六甲のふもとの街並みが目に入る。
そして、この街が明日もあればいいなと思う。できることなら、この街はこのままであってほしいと。
地元愛なんてこれっぽっちもない。ただ、当たり前のものがずっと当たり前であってほしいと、思った。「この風景はずっと変わらないでいてほしい」。