私は母方の祖母と祖父のことが大好きだった。小学生のころは週末になると必ずといっていいほど泊まりに行ったし、夏休みなどの長期休みになると宿題をかかえてすっ飛んでいった。
らっきょう収穫時は祖母の隣を陣取り、どちらが多く掘りだせるか勝負
祖母と祖父は農家で、らっきょうや米やメロンを作っていた。ゴールデンウイークになって、いざ、らっきょうを収穫するとなると、祖母の隣を陣取った。そして、祖母にどちらが多く掘りだせるか勝負を挑む。
祖母は小さくて細い姿からは想像できないほど、らっきょうの束をぐわしっと掴み、ざっざとすごいスピードで切っていく。もちろん私は勝負に勝つことはできなかったけど、祖母のかごに、らっきょうがどんどん積まれていくのをみるのが楽しかった。父が収穫したらっきょうに「上手じゃないね」と批評すると、聞いていた祖母は「農協の選別より厳しいが」と笑っていた。
夏には夏野菜がたっぷり採れる。きゅうり、トマト、ナス、ピーマン。祖母は料理も上手で魚でも野菜でも、なんでもおいしく料理した。夏になると、朝早く畑に行って収穫してくれた祖母の笑顔を思いだす。「雨に打たれると割れるけえ」といって、手のひらより大きなキュウリを、自転車のカゴに山盛りに帰ってきた。
「また来たらええけ」と言ってくれる祖父母に、あと何回会えるだろう
祖父母の家の近くには、同い年の幼馴染も住んでいた。夏休みではラジオ体操に一緒にでかけたり、夏休みの自由工作を共同制作したりした。
工作では浜辺で貝殻を拾ってきて、空き瓶に紙粘土で貝殻を張り付ける。そして、乾いたら海と浜辺を描く。同じ海で拾ってきて、同じ絵筆で描いたのに、仕上がりは幼馴染のほうが断然上手かった。祖母も「幼馴染ちゃんのほうがきれいだなあ」と言うものだから、私はうらやましいやら、くやしいやらで何も言えなくなってしまった。
祖父は物静かな人だった。畑に出ると、一番大事な最後の工程を担当したり、ビニールハウスの開け閉めを担当したりと、農作業に欠かせない人だった。
毎日、何をしたのかを日記に書き込む。私はその静かな姿が大好きだ。1冊で5年分の日記が書けるその手帳は、記録を読めば、今頃はどんな農作業をすべきかを教えてくれる、大事な日記帳になっていた。しかし、独特な文字で書かれているから、私たちには解読できない、祖父だけの日記帳。
長期滞在したあとは、泣きながら自宅に帰った。「また来たらええけ」といつも言ってくれた。そして祖父母は、私の乗った車が角を曲がって見えなくなるまで、玄関先に立って見送ってくれた。
痩せて腰が曲がった祖母と、どっしりと立ってはいるが糖尿病だった祖父。あと何回泊まれるのだろうと、子ども心ながらに悲しくなってしまっていた。
見送ってもらう側だったのに、祖母を見送る側になり、もう会えない
私は大学生になり、地元を出た。そしてそのまま、島根でフリーターをしていると、コロナ禍となり、容易には帰れなくなった。「落ち着いたら帰ろう」。でも、その願いは叶わなかった。
ある日突然、母から電話で祖母の急死を告げられた。あまりの突然のことで、葬式のことはよく覚えていない。ただ、家から出棺するときに胸に浮かんだものは、昔、玄関先で私を見送ってくれた祖母の姿である。
黒い霊きゅう車が、ゆっくりと発進し、見えなくなるまで私は泣きながら見つめていた。昔は見送ってもらう側だったのに、今度は祖母を見送る側になってしまった。そして、もう会えないのだ。そう思うと、涙が止まらなかった。「また来たらええけ」と言ってくれた祖母は、もう待っていてはくれない。
祖母の死から、約半年後、祖父も逝去した。がらんどうになった祖父母の家は、ありきたりな言葉ではあるが、からっぽになっていた。私にとっては2人が「ふるさと」だったのだ。
もう少し早く帰っていればと、思ってしまう。だけど、記憶を掘り返した時、元気なころの姿で思いだせるのは、きっと衰弱したときの2人を見ていないからだ。
あの家に帰っても『ふるさと』はやってこないが、離れた地でも2人に思いを馳せる時、私は『ふるさと』に帰ることができる。