甘ったるい赤ちゃんの匂い。窓から差し込むまぶしい光。
枕元に転がるスマホを見ると、15時を過ぎたところであった。娘が起きないように、静かに布団から抜け出す。
ぼんやりとした頭で、掃除、洗濯、食事の用意の手順を考える。窓から差し込む光が目に沁みて、憎い。こっちは娘の寝かしつけと授乳によって、ゆっくり寝れてないというのに。
寝れても2時間。細切れの睡眠時間は私の気力と体力を削っていく。
ふにゃふにゃ、とか弱い鳴き声が聞こえる。その声に引き寄せられるように、私は寝室に吸い込まれる。
怒鳴られ、過呼吸の繰り返し。子どもを産めば、幸せだと思っていた
「出ていけ」
彼が私を怒鳴りつける。喧嘩の理由は何だっけ?
そうだ、私が食器をシンクに溜めていたことだ。いつだって、彼が私に怒る理由は、私にとっては細やかで理解できない。自分が食器を洗えばいいだけじゃない。食洗機を買えば済む話しじゃない。
でも、私の意見なんてなかったことのように怒鳴り続けるから、私は言葉を紡ぐことをやめた。ただ黙って、終わりを切望するだけ。彼が私のことを平手で打ち、頬に衝撃が走る。痛みよりも衝撃で涙が溢れる。
私なりに頑張ってるんだけどな。
慣れない赤ちゃんの世話、あなたの好みに合わせた食事、スーツのアイロンがけ。普通に幸せでいられるように。寝不足の頭でも一生懸命考えて、考えて、逃げ出さずに家にいるのに。
少しずつ呼吸が苦しくなる。喧嘩の終わりはいつも私が過呼吸を起こして、それを彼が甲斐甲斐しく介抱すること。彼が持ってきたタオルを口に当てて、必死に呼吸をする。彼が私の背中を優しくさする。
なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。
子どもを産めば、幸せなのだと思っていた。新築の家と、安定した職の旦那、両親が揃って笑っているお家。
ねえ、知ってた?笑顔って作れるものなんだよ。死にたいと思いながら、笑えるもんなんだよ。
「普通の幸せ」にしがみついて、努力して、馬鹿らしくなって諦めた
彼が仕事に行った後、トートバッグいっぱいに荷物を詰めて実家に帰った。今までの不満を事細かに記し、彼にLINEを送信した。文末には「電話やトークに返信はしません。話があるなら私の実家に来て両親がいる前で話して下さい」と記した。
実家の両親は孫を連れて帰ったことが嬉しくてたまらないようで、終始笑顔で孫と接していた。
その日は鬼のように電話がなり続け、私はそれを無視し続けた。翌日、知らない番号から電話があった。
「警察です。浅木さん、ってご存知ですよね?浅木さんが先ほどこちらに来て、『子どもを誘拐された』と大きな声を出していたんです。興奮していて話ができる状態でもないので、今ご実家にいるらしいですが、そこから避難できますか?DVシェルターに避難することもできますが、どうされますか?」
そこまで馬鹿な人だったんだな。私が守ってきた人は、あまりにも稚拙な行動しかできない。
「DVシェルターに避難させて下さい」
DVシェルターに避難してから、彼と別れる手続きを進めていった。また、しばらくは母子支援センターで生活することになった。
「普通の幸せ」にしがみついて、努力して、馬鹿らしくなって諦めた。
私はそれを後悔していない。
だって、シンクに食器が溜まっていても娘は眩しく笑っている。それに微笑みを返すくらいの心の余裕を持てるようになったから。
娘と2人で幸せになれるように、誰も犠牲にならないように、ゆっくりと歩んでいこうと思う。