私には祖母がいる。いや、いた。享年52歳。あまりにも若すぎる死だった。
祖母が亡くなった当時、私は中学1年生、13歳の誕生日を迎える1ヶ月前だった。まもなくゴールデンウィークが始まろうかというその日、あまりにも突然すぎる訃報。身近な人が亡くなるのは初めてのことだった。

「おばあちゃん」と呼ばれるのを嫌がった祖母は「かあちゃん」

私が13歳で祖母が52歳、という年齢に違和感を覚える方もいるかもしれないけれど、私と祖母は血が繋がっていない。正確に言うと、私の母は祖父の前妻の子で、祖母は、母の母と祖父が離婚したあとの後妻さんである。それを私が聞かされたのは、小学五年生の時だった。小学五年生まで、祖母が本当の祖母であると信じて疑わなかった。それほど、母に対しても私に対しても、祖母は平等でいてくれた。だから私はその事実を知ったあとも、何も考えずに祖母の孫としていられた。

私は祖母のことを「かあちゃん」と呼んでいる。これも、私が生まれた当時、まだ三十代だった祖母が「おばあちゃん」と呼ばれるのを嫌がったからだそうだ。かあちゃん、ママ、私には二人のお母さんがいた。小学校時代は家庭の事情もあって母との折り合いが悪く、毎週休日を祖父母の家で過ごしていた。夏休みも冬休みも、年末年始も一人で祖父母の家で過ごしていた。祖母は時には私とみかんを食べ、時にはスイカを切ってくれたりした。母との関係については一言も口を出さずに、ただただ私の傍にいてくれた。

中学生になると、祖父母の家には一度制服を見せに行ったっきりだった

私が住んでいたのはとびきり田舎の町だったので、市内のショッピングモールに出るまで車で20分ほどかかる。バスが1時間に1本出ているが、小学生のうちは子供だけで市内に出ることは許されていなかった。私たちにとって中学生という肩書きは、いわば自由への通行手形みたいなもので、中学生になりたてだった私は毎週のように休日を友人たちと過ごしていた。小学生の頃はしょっちゅう遊びに行っていた祖父母の家にも、中学生になってからは一度制服を見せに行ったっきりだった。

祖母が亡くなる前日、母は私にこう言った。
「最近かあちゃん、なんだか具合が良くないみたいなの。今から行くけど、ちょっと顔見せてあげたら?」
私はそれを断った。だって、友達と遊ぶ約束してるから。そう言った私に母は「はいはい」と呆れたように返事をして、一人、祖母の元へと向かっていった。それが祖母に会う最後のチャンスだとも知らずに。

その日は、朝からどんよりとした曇り空だった。いかにもつめたくて重たそうな雲が空を覆い尽くしていて、朝から言いようのないモヤモヤ感に苛まれていた。今思うとこれがいわゆる虫の知らせ、というものだったのかもしれない。

祖母の顔を見た時、私はなんてことをしてしまったのだろうと思った

忘れもしない、体育の授業中、担任の教師が木造りの体育館から私を連れ出した。
「おばあさんが亡くなったそうだから、急いで帰る支度して」
そういった教師に私は二回ほど「え、おばあちゃんですか?」と聞き返した。当時はまだ八十代の曾祖母が存命だったため、叔母が迎えに来てくれるまで、私はどちらが亡くなったのか理解出来ずにいた。朝起きたら冷たくなっていたという、いつにも増して血色の悪い祖母の顔を見た時、私はなんてことをしてしまったのだろうと思った。制服は見せたけど、ジャージ姿は見せてなかったね、もうすぐ体育祭だったのに、色んな気持ちが渦巻いて、ただ胸が痛かった。

あれから十年の月日が流れた。中学生だった私は23歳の社会人になったし、時間の流れとともに母との関係も良くなった。祖母が亡くなってからどんなに経っても、あの日会いに行かなかった後悔は胸から消えない。ずっとこうして後悔していくんだと思うし、祖母が私のことをどう思っていたかは、私が祖母と同じ立場になるまでわからないんだと思う。死後の世界があるのか、私はよくわからないけれど、お盆のたびに亡くなった先祖が帰ってくるというなら、無きにしも非ず、といったところなのではないかと思っている。だから、何十年か後に私が亡くなった時は、かあちゃんに直接謝りたい。

最後の最後に、顔も見せなくてごめんね。