近くのカフェがテイクアウトを始めたと聞き、初めてそのカフェを訪れた。
25年私は地元から外に出ないまま毎日を送っているが、そのカフェは何年前からあるかなんて知らない。オーナーの名前も知らない。
初老のオーナーは「お仕事ですか?」と私に聞く。「ここから歩いて3分のところに住んでいるんですよ、25年前から」なんて言えるはずもなく、私はただ、外にも内にも馴染めない自分を恥じた。
渡してくれたのは、冷たいアイスコーヒーと、焼いた食パンに薄い卵焼きが入っているもの。「サンドウィッチ」を頼んだはずだが、随分質素である。クーラーをガンガンにつけた自室で頬張ると、なんてことやら、胸が痛くて痛くて仕方なくなった。
私はこの味を、知っている。
ただ食べたのは、周りは田んぼしかなく、近くの中学校から部活動での声が響くような、こんな家の中ではない。ついには最後まで苦手だった、八角の匂いが充満した、一室の部屋だった。
無謀な行動をする私に、寮母が呆れながら渡してくれたサンドウィッチ
端的に言えば、あの日々は宝物だった。学内で「交換留学生募集」の張り紙を見つけ、試験を受けて、何故か合格して、親に報告したのは、出発の1週間前だ。
期間は1か月というごく短期間のものだったし、フライト準備も寮の手配も授業の準備も学校がしてくれるプレミア待遇だったから、甘えが出てしまっていたのかもしれない。
親に初めて報告したとき、それはもう驚愕された。だって私の、初めての無謀な冒険だったんだもの。海外なんて初めてだし、むしろ飛行機も初めて。語学は学校で習った程度だし、おまけに学内からは私ともう3人の見知らぬ生徒たち。
その生徒たちとは、現地集合だった。行先は台湾の桃園空港。怖がりなくせに面倒くさがりなものだから、事前準備も全くせず、両替もスマートフォンの手続きもすべて現地で1人でやった。
どうにかなっちゃうもんだな、と思いつつ、私は「空港の出口で現地集合」なんてすっかり忘れ、1人で寮にまでやってきた。中国語なんて全く分からなかったが、寮母が呆れていたのはなんとなくわかる。「ソーリー」といえば、「ブーフイ、ブーフイ(大丈夫、大丈夫)」と渡してきてくれたのが、そのサンドウィッチだった。
忘れていたのにあの味が胸に溶け込むと、台湾の暑さと情景を思い出す
「食」って不思議だと、つくづく思う。あのとき寮母とした会話なんて、それが何時ごろのお話だったかなんて、そもそも私以外の生徒はいつ寮に到着したかなんて、すっかり忘れてしまったのに、あの味が胸に溶け込んだら、台湾の暑さとともに情景を思い出す。
焼いた薄い食パンに入っている、味のしない薄い卵焼き。お世辞にも絶品だとは言い難かったが、コミュニケーションもままならない人と食べる異国の料理は、やはり衝撃的だったのかもしれない。
なんてことを、クーラーの効いた自室で思い出す。トイレはトイレットペーパーを流せなく不便だったし、八角の匂いはどうしても得意ではない。雨が降り続くせいで私の髪の毛はずっと膨張していたし、部屋のクーラーはなかなか効かなかった。
私は25年、この地元から出ていない。でも、間違いなく1か月だけ、私はこの地を離れた。離れて思ったことは、地元のありがたみではなく、親の恋しさではなく、「こんなものか」というあっけない感情だった。
今も八角の匂いは苦手だけど、地元には抱かない哀愁を抱えてしまう
私はきっと、この地でもそこそこ楽しく生きていける。25年、外にも内にも馴染めなかった私だが、そんな私でも、現地の人たちはすっと受け入れてくれた。中国語がわからなくても、日本人でも、突拍子のない行動をしてしまっても、受け流してくれる。受け入れてくれる。台湾の人たちは、優しすぎた。
あれから年に1度、必ず台湾まで訪れて、友人たちと会う。台湾での結婚式にも参列した。相変わらず語学は習得できないけど、八角の匂いは苦手だけど、「帰ってきた」と思うことが多くなった。
25年生きてきた地元には抱かない哀愁を、なぜこんなにも抱えてしまうのだろう。日本の内にも外にも馴染めない私が、台湾になら馴染めるなんて、ちゃんちゃらおかしい話である。
もう2年は台湾に行けていないが、あの子たちは全員元気だったらいい。たまに見るSNSでは、どうしてもあのサンドウィッチも八角も味わえないから。
今日は暑い。でも台湾は、もっと暑い。