廃れた雑居ビルの、やけに遅いスピードで昇るエレベーターの中でじわりと汗をかく。仕事終わりのスーツは朝に見たときよりもくたびれていて、安くテカっていた。
エレベーターを降りるとそのフロアには重厚な扉が一つあるだけで、どんな作りのビルだよと心の中で突っ込みながら押し馴れた扉をゆっくり開く。バーカウンターの中からこちらを見るユウコウさんに小さく手を挙げ、決まった端の席に座る。

目の前に出されたカクテルは上品に輝き、一口飲むと疲れが飛んで行く

お疲れ様、そう言うユウコウさんに、何飲もうかな、と悩みながら煙草に火をつける。
禁煙したら手持ち無沙汰で何をして良いか分からないと、バラエティ番組で芸人が言っていた言葉を思い出しながら、アマレットにしたら?と言うユウコウさんの言葉に同意する。辛口のジンジャーエールで割ってとオーダーして、さらに深く煙草を吸い込む。

氷を砕くアイスピックの音、メジャーカップにアマレットが注がれる。辛口ジンジャーエールの王冠をプシュっと開けてトポトポ注ぎ、軽くステア、最後にビターズを垂らす。目の前に出されたカクテルは上品に輝き、一口飲むと今日の疲れが一気に飛んで行った。
一枚板で作られたバーカウンターでは礼儀だと、いつも彼は指輪を外していた。そうやって、外した指輪を入れた財布をなくして奥さんに怒られたという馬鹿げた話を思い出して胸糞悪くなり、やっぱなんかロックで、と2杯目をすぐにオーダーする。

「で、どうよ?彼と」
「特に変わらず。平常運転」
「不倫の平常運転の終着は99%が地獄だよ」
「別に現実世界も地獄みたいなもんだし、いいよ、このままで」
「まだ若いからいいけど、本当にいいの?このままで」
「ユウコウさんは、現実世界が地獄ではないの?」
「余裕で地獄」

深夜まで飲み続けた濃くて尊い時間が、もう何年も前のことなんて

そう言って、2人で笑った。次、何がいいのと聞かれ、ラムにすると言いながら、ユウコウさんの後ろに並ぶ酒を眼だけで物色し、キャプテンモルガンのロックでと早々に決める。
たまに一緒になる常連のラキさんはキャプテンモルガンが好きで、よく一緒に飲んでいた。ラキさんの気分が良いとプライベートストックを飲ませてもらえるから、私はラキさんが好きだった。

「ラキさんは今日来ないかな?」
「昨日死ぬほど飲んでたから、多分今日は二日酔いで来ないよ」
「あの人学習しないね、毎回盛大に飲みすぎてない?」
「それでこそ、ラキさんだよ、いつも明るくて、飲みすぎるのが、ラキさん」
「まあそうだね、今日はラキさんの分まで私が飲むよ」
「じゃあ俺も飲む」

そんな事を言いながら乾杯して深夜まで飲み続けた日々。バーが休みの日は、友達としてユウコウさんと2人で飲みに繰り出した。常連のラキさんとバーで会ったら飲みすぎて、帰りの足をなくした2人で24時間やっている銭湯に行ったこともある。
そんな濃くて尊い時間を過ごしていたあの日々が、もう何年も前のことなんて信じられない。東へ向かう新幹線の中、足早に変わっていく景色を見ながら思い出していた。近くの席から、富士山は今日見えますか?と車掌さんに聞くおじさんの声が耳に入る。

再会は何故だか身内のような懐かしさで、相変わらず私はいつもの席に

久しぶりに見る雑居ビルは相変わらず廃れていて、エレベーターは信じられないくらい遅かった。エレベーターを降りると目の前に重厚感のある扉が現れ、深呼吸してからゆっくり開く。
久しぶりに目が合うユウコウさんは、いらっしゃいませと一見さんに言うように声を発し、その後すぐに私だと気づいて、え、なんで、何年ぶり?と荒ぶっていた。久しぶりに会ったのに何故だか身内のような懐かしさに笑ってしまい、何年も時間が経ったにも関わらず私はいつもの席に座った。
荒ぶりながらも、何にすんの?と聞くユウコウさんに、ジェムソンのソーダでとオーダーする。そんなの飲んでた?と聞かれて、そんなの飲むようになったのと、呟くように伝える。
バーの暗がりでも分かるくらい、ユウコウさんは白髪が増えていた。

「ラキさん来てる?」
「あー、それ聞く?」
「何?ダメ?」
「んーとね、あの人、消えちゃったんだよね、みんなで家まで押しかけたりしたけど、ある時から急に会えなくなったんだ」
「そうなんだ」
「それより、彼とはどうなの」
「そんなの終わってるよ」
「地獄だった?」
「まあ、軽めの地獄だったかな」
「そっか」
「ねえ、キャプテンモルガンのプライベートストックちょうだい、ロックで」
「はいよ」

氷を砕く音が響き、トポトポと注がれるお酒の音が懐かしく、心地良い

アイスピックで氷を砕く音が響き、トポトポと注がれるお酒の音が懐かしく、生まれ育った街ではないのに、ふるさとのような心地良さがあった。
あ、灰皿いる?そう聞かれ、煙草辞めたんだ、と言った私に、そっか、と優しく言うユウコウさんはお母さんのような眼差で、目の前に置かれたキャプテンモルガンは上品に輝いていて、一口飲むと今までの疲れを一気に吹き飛ばしてくれた。お帰り、そう微笑むユウコウさんに、ただいまと言って、喉元を通るお酒の熱さを感じながら、ピンと張った生地のスーツの袖をめくり、それでね、と話し続けた。
キャプテンモルガンのプライベートストックは、在庫過多くらい何本も床に置かれて埃をかぶっていた。