なんの変哲もない故郷の風景が、額縁に入れて飾られている写真のように、いつまでも私の心に焼き付いている。

その風景とは、遥か先まで水田が広がっていて、風に吹かれて稲穂が波打っている光景である。春には水面がさざめき立って波紋を作り、夏には青々とした緑の、秋には黄金色の草原が姿を見せる。その田んぼの間を、白鷺が縫うように歩いている。

物心ついたころから高校1年生まで暮らしていた私の「故郷」

このように書くと夢があるように感じられるが、なんてことはない、ただの陸の孤島だ。物心ついたころから高校1年生まで、その故郷で暮らした。

関東平野の恩恵を最大限に受けているといわんばかりに、限りを尽くして広げられた水田。その間にぽつぽつと点在する住宅。水田の間を走る道路は、あまり車が通らないので、歩行者天国のように真ん中を歩ける。

背が高いものといえば電柱くらいなので、遮るものがなく、良く晴れた日は、雲の影が地面に落ちている様子を見ることができるほどだ。都会ではなかなかお目にかかれない光景ではないだろうか。

車がなければ不便であるのは間違いない。特に私が住んでいたところは、市街地に出るために、急こう配の坂を上るか、向かい側から人が来たら譲り合わなければならないほど幅が狭い歩道を通るかしなければならない。それらの道は、意外にも人の通りや大型車両の通行が多いので、かなり注意して通る。

それらの道を通り過ぎて、やっとスーパーがある。ここまで自転車で15分はかかる。その周辺に服屋や電気屋はあったので、当時車が運転できなかった専業主婦の母は、父のいない平日でも、なんとか生活に必要なものを買うことができた。

私の性質に故郷は合わなかった。そして、私も合わせようとしなかった

娯楽に限っては、自転車で行ける範囲では皆無に近かった。本屋、映画、ゲーム、それ以上の娯楽は父の車に頼るほかなかった。

だからといって、自然を遊び場にするほど、私は活発な性格ではなかった。内で過ごすのが好きで、休み時間は外で遊べと、担任の先生に教室から追い出されて、仕方なく外で遊ぶような子供だったのだ。

今考えると、私の性質にあの故郷は合わなかったのだと思う。そして、私も合わせようとしなかった。

特に小学生の頃は、ゲームが好きだったのだが、周りの友達は皆、外で遊ぶのが好きだった。ゲームが好きな子もいたが、当時ゲーム好きは変人扱いされる風潮があり、表立って皆に話せないない息苦しさがあった。

そのような周りから浮きそうな趣味を持つ子は、うまく隠して、周りで流行っているものの話題にも乗っていた(少なくとも当時の私の目にはそう見えた)。しかし、私は不器用にも無口・人見知りという方法でしか自分を隠せなかった。今思えば、学校の中ではかなり浮いた存在だった。

大学生になり東京へ出て、自分の常識のなさに恥ずかしさを覚えた

そして、中学校入学、受験を迎え、いつしかゲームもやらなくなった。大学生になり東京へ出るようになって、自分の常識のなさに恥ずかしさを覚えた。

友達と「懐かしい話」ができずに盛り上がれない。カラオケは大学生になって初めて経験した。大学生になって、人とゲームの話ができるかと思ったが、ブランクがある上に、自分以上にやりこんでいる人が多く、とても対等に話せなかった。

他人とわずかな話題も共有できない中途半端な「私」。無知なのは閉鎖的な故郷にいたからだ、と環境のせいにしていた時期もあった。無論、それは、私の関心事が偏っており、チャンスはあったにもかかわらず、私が主体的に知る、体験するということをしてこなかったからだが。

そんなほんのり苦い思い出もある故郷だが、毎日の通学で通った脇道の田んぼ、自転車を走らせていた時に遠目から見た田んぼ、学校の4階の窓から眺めた田んぼの風景が、私の心にいつまでも残り続けて、時々思い出しては、懐かしくて、切なくなる時がある。

良くも悪くも、そこが私のはじまりの場所なのだ。忘れようとしても忘れられない思い出とともに、この景色を一生背負っていくのだろう。