私が止まったのは、親友のお通夜の後、お葬式の前でした。
親友なんて言葉にしてわざわざ互いに確かめ合うようなことはしていませんでしたが、大学で一番長く、一番密に交友していたのは確かに彼女でした。亡くなる数日前にも、一緒にご飯を食べて買い物をして遊んでいました。なので、それは自信を持って言えます。
数行のニュースで知った親友の死。彼女をしっかり、きちんと送りたい
彼女が亡くなったのは、まだ大学生のときでした。
しかしながら、休暇中だったためか個人情報保護のためか、はたまた他の理由からか、それが大学側から伝えられることはなく、またそれぞれ遠方から進学していた私たちのことを互いの親が知るはずもなく、私が彼女の死を知ったのはネットニュースでした。
最初は、ほんの数行のニュースでした。それが少しずつ情報が増え、名前が同じ、大学が同じ、年齢が同じとなれば、もう否定することもできませんでした。
彼女の死を知った後、私は、彼女を送らなければ、と思いました。しっかり、きちんと。
葬儀に出るのは子どものとき以来、制服がなくなって初めてでしたから、慌てて喪服と数珠、黒いストッキングからパンプスまで一式買い揃えました。香典を用意し、失礼にならない化粧と言葉を覚えました。
そしてそれ以上に懸命になったのが、連絡や取りまとめでした。彼女の故郷は遠く、彼女の家も家族も知らない大学の友人たちは、詳しい説明をしてもらえる状況ではありませんでしたから。自ら大学などに働きかけて、ようやくお通夜やお葬式の日時と場所を知ることが出来ました。そうして次は、私がそれらを伝えていきました。
私が一番仲の良い友達だったのですから、他の友達に伝えるのは私の役目に違いありませんでしたから。
悲しみも寂しさもあったけど、葬儀への使命感にかられ、泣けなかった
亡くなったことを伝え、お通夜の場所を伝え、そこへの行き方を伝えました。行きたくても行けない人の香典を立て替える準備をし、電報を打つ場合の宛先を調べました。
そうして、時間も実感もないままなんとかたどり着いたお通夜で、私は泣きませんでした。
私が連絡を回した大学の同じ学科の友達も何人も来ていて、女の子は皆泣いていたように思います。
お通夜に出席すること自体は初めてではありませんが、同世代の友人を亡くしたのは初めてでした。久々に会う親戚と故人の大往生を褒め称えるような葬儀しか知らなかったのです。
まだ若く、これから社会に出て楽しいことも嬉しいこともいっぱいあるはずだった女の子の死を悼むお通夜は、辛いものでした。
それでも私は泣けなかったのです。その時私の頭の中を占めていたのは、ご焼香の手順はどうだっけとか、数珠の持ち方は間違ってないかとかでした。
親友が亡くなって、悲しみも寂しさも悔しさもありました。しかしそれ以上に、彼女の葬儀が滞りなく行われるようにしなければ、という使命感にかられていたのでしょう。
彼女との初めて会ったときのこと、楽しく遊んだこと、悩みを打ち明けあったこと。
学食で一人食べている私に話しかけてくれたこと、彼女のバイト先に遊びに行ったこと、温泉旅行に行こうと約束していたこと。
そういった思い出とそれに連なる感情を吐き出すことができなかったのです。
もちろん、突然娘を亡くされた親御さんたちご家族の方が、ずっと大変だったと思います。生まれたときから育ててきた我が子との突然の別れに直面し、休む間もなくお通夜まで準備していたのですから。
お葬式の前で止まった私は、別れを告げる途中で座り込んでいるよう
ですからこれは、私自身の問題だったのでしょう。お通夜を終え、明日のお葬式について考えて、結局、私は行くのをやめました。葬儀場までの経路を考え、交通費を下ろし、持ち物を確かめることばかりの自分が、お葬式に行ったところでなんの意味があるのだろうと思ってしまったからです。
確かに私は彼女の親友でしたが、そのときの私がお葬式に出たとしても、生前の親しさを理由にそこにいるだけでただ機械的に手順を踏んでいくことばかりに終始する、情を忘れた女になることが容易に想像できたからです。
お通夜やお葬式、そして法事といった葬儀は、生者が死者に別れを告げる儀式だという話があります。
お通夜とお葬式の間で止まった私は、彼女に別れを告げる途中で座り込んでいるようなものでしょう。未だに彼女を思い出すとき、もうこの世にはいないのだ、という実感を伴えないのです。
それでも、彼女との新しい記憶が更新されない現状に、確かな不在を感じ始めたのも事実です。後者が前者を上回ったとき、私はようやく立ち上がるのだと思います。
もしかしたら、もう再び歩み始めているのかもしれません。私なりの形で、彼女に別れを告げられる、その時へ向かって。