恋人とはじめて手をつないだ。
身長の高い彼の手は大きくあたたかく、私の手をきれいに包み込む。そのとき、私はなぜだかなつかしさを感じた。

初めて彼と手をつないだ時に感じた懐かしさは幼稚園の記憶と重なった

当時交際を始めてからまだ日は浅く、私は緊張していた。だが手をつないだ瞬間に、ふわりとなつかしさを感じるとともにとても穏やかな気持ちになったのだ。
それは不思議な感覚だった。それから何度か手をつなぐ機会があり、そのたびにその感覚は訪れた。

なんだろう。このなつかしさはなんだろう。なにかに似ている。いつかを思い出す。これはなんだろう。

やがて、思い至った。幼いころ父と手をつないで幼稚園まで歩いていた記憶、それが今の感覚と共鳴しているのだということに。

普段は母に自転車で送り迎えしてもらっていたけれど、たまに父とともに歩いていく日があったのだ。ちょっとした特別な日。幼稚園までの道のりを二人で手をつないで歩いた。
幼い私には、父はとても大きく見えた。安心して連れられていた。

その頃のまだまだ小さな私の目線、地元の景色、朝の空気、歩くリズム。「背の高い男性と手をつなぐ」という行為をきっかけにしてそれらが一気によみがえっていたのだ。
私の「ふるさと」が呼び起こされていた。

新鮮な生活のなかでも、五感のどれかがふるさとの記憶と共鳴する

県外の大学に通うために引っ越しをして始めた一人暮らし。まだまだ子どもの私が、すぐに泣いてしまうようなこの私が、一人暮らしなんて本当に大丈夫なのだろうか。地元が恋しくなってしまうのではないだろうか。不安でいっぱいだった。知らない町、慣れない気候、新しい友人。とまどいながら暮らし始めた。

しかし、少しずつ気がついていった。そんな新鮮な生活のなかにも、五感のどれかが過去に共鳴するような瞬間が、たくさん存在しているのだということに。それまで地元を離れたことがなかったためふるさとを意識することはなかったが、そこに立ち現れるのは紛れもなく私のふるさとの記憶だった。

ふるさととは、自分のなかに知らず知らずのうちに記憶として染み込んでいるものなのだ。もっと言えば、自分の記憶そのもの、なつかしさを感じさせてくれる思い出のかけらこそ、住み慣れた自分の身体の中に存在しているふるさとであるともいえるのかもしれない。

それらのもつなつかしさ、あたたかさは、「ふるさと」というのにぴったりだ。辞書にも、「ふるさと」とは「その人に、古くからゆかりの深い所」とある。

生活と私のなかに、確かに存在している「ふるさと」に安心した

初めて歩く場所でも、風の香り、空気の湿り具合、ちょっとした風景などが、私の五感を通してささやかに、時に強烈に語りかけてくることがある。私の記憶に触れて、心を優しくなでていく。それらがなにと共鳴しているのかよく思い返して答え合わせをすることもあれば、ただその感覚に身をゆだねることもある。そうして、生活のなかに、私のなかに、確かに存在している「ふるさと」に、安心するのだった。

このコロナ禍でなかなか私のふるさとに実際に帰ることはできていない。もっと家族や仲の良い友人と直接会って話したいという気持ちも強い。
しかし、今はふるさとを感じる瞬間を大切にしながら生活していくことにしようと思う。そんな暮らしでの経験が、また新しい私のなかの「ふるさと」をつくるのかもしれない。