蝉の鳴き声がうるさくて目が覚めた。時計を見ると午前6時、ちょうど起きる時間だった。
寝具を整えてリビングに行く。食パンを焼いて、牛乳で流し込む。
0限は7時30分から。7時前には学校について英単語を覚えたかった。早朝の生物室には授業が始まる前に自習をしたい生徒が数名集まっている。職員室前の廊下も人気の自習スポットだ。
私は高校3年生。公立の進学校に通う私たちの多くは県外の国立大学を目指し、日夜勉強に励んでいた。
どうして受験勉強を頑張るのかと聞かれれば、それは東京へ行きたいからだ。私は切なる思いで、東京へ行けば人生は好転するに違いないと思っていた。
モデルの眩しい生活にクラクラし、雑誌で見る東京は楽園のよう
東京に憧れはじめたのはいつからだろう。
小学校3年生のときに初めてファッション誌を買った。インターネットが一般家庭にも普及し始めた頃で、我が家にもパソコンがやってきた。当時好きだった子供向け番組に出ていた女の子の名前を検索するとその雑誌がヒットした。早速近所の本屋へ向かい、雑誌を購入した。
モデルの多くは中学生で、私は大人の世界を覗き見しているようでわくわくした。紙面で見た渋谷の109や109-2にはローティーンにも人気のブランドが集合していて、楽園のようだった。モデルたちが撮影後に原宿でプリクラを撮って、クレープを食べたというエピソードは眩しくてクラクラした。
それからというもの毎月欠かさず390円を握りしめて本屋へ走った。年齢にあわせていくつかの雑誌を経由しながら、結局高校1年生くらいまで私の主たる情報源は雑誌であり続けた。人気の読者モデルが「ダイエットのために3駅くらいは歩いちゃう」と言っているのを読んで、さすがストイックだなぁと仰天した。私の住む街では、1駅間は徒歩30分ちょっとあるから。
東京で「地方の子」とか言われるたび、自分の核が小さくなる気がする
結局私は東京の私立大学へ入学した。嬉しさと緊張がピークに達したのか、上京直前に胃腸炎になった。
はじめて通学する日、鞄に防犯ブザーをつけて、車道から離れて歩いた。ひったくりが怖かったのだ。両親はそんな私を新居のベランダから手を振って見送ってくれた。
初日はオリエンテーションだけで、みんな手当たり次第に友達を作ろうとしていた。いくつか言葉を交わすと皆そろって「どこ出身なの」と聞いてきた。
なまっていたのだろう。「大分だよ」とこたえると、「えっと、大分ってどの辺だっけ」とかえってきた。そんなやりとりが何度か続き辟易した。面倒だったので、それからは「九州の大分だよ」と伝えるようにした。
「なまっててかわいいね」と言われることもあり、ムキになったのか苛立ったのかよく覚えていないが、口から咄嗟に出たのは「そうかな。標準語喋りよんつもりやけん」だった。我ながら滑稽である。
上京してから「地方は」とか「地方の子」とか言われるようになった。大分はれっきとした地方ではあるけれど、なんとも言えない気持ちになった。なんだか、自分の身がかんなで削られていくような気がした。うすく、少しずつ、でも確かに自分の核であったものが小さくなっていくのを感じた。
大分にある居場所が減り、大分弁が錆びついてきても、ここがふるさと
大分を離れて10年になる。
「そうなの?よかったねー」なんて言葉はスラスラと出てくるけれど、頭で考えてから口に出すまでにコンマ1秒ほど遅れる感覚がある。そして、その言葉には感情を100%のせることができないままでいる。
「そうなん?よかったなぁ」と言いたい。友達が悩んでいるときには「心配せんでいいんで、いつでも話聞くけん」と言いたい。
器用に言葉を使える人もたくさんいるだろう。それでも、標準語の人を相手に方言で話し続けるのはなかなか難しいのだ。
羽田空港を出発した飛行機が西日本の上空を通過し、窓から見える景色が見慣れた山と海になると自然と笑みがこぼれる。ここが私のふるさと。それでも、私の大分にある居場所はなくなり続け、私の大分弁は日に日に錆びついてきている。
東京でも半分、大分でも半分。自分が中途半端な人間のように思えてくる。それでも、もうしばらくは東京で頑張りたいなと思う。
ふるさとがあるから、がんばれる。