20歳になった時、私はより良い教育やや生活を追い求めて、母国の台湾を出た。それからは、イギリスやオランダで学生時代を過ごし、今は日本に住んでいる。
台湾を離れてもう9年になり、移動の多い生活もあり、先々で自己紹介をする機会が増えた。その度に私は故郷の「永和」を思い出す。
現代人が求める要素とは無縁だけど「人の手が紡いだ暖かい町」がある
「永和」は、台北の西南方にある小さい町だ。
といっても、台北在住以外の台湾人でも聞く事がまずない地域なので、いつも「台北出身」という事にしている。
「永和」は台湾で最も人口密度が高い地域として知られている。40年代、第二次大戦後に国が中国から逃げてきた軍隊をそこに安置し、70年代、裕福になった台北で仕事するために、さらに多くの人が永和へ移り住んだ。
永和には近代都市に見るような都市計画はなく、できるだけより多くの人が安く住めるようにする事だけに焦点が当てられていた。計画されていない建物が多く建ち、迷いやすい細い道も多いだけでなく、アパートやマンションの上に適当な鉄板で小屋を作り賃貸に出す事も当たり前なことだ。
そして、ここ永和百景の一つは、「バイク大河」という朝の出勤と帰宅時間にのみ出現する大河だ。ちなみにこの名前は私がつけた。
永和の住民たちが交通費を抑えるためにバイク通勤を選んだ結果、唯一台北へ架かる橋に大量のバイク通勤者が大河の様に橋の上を流れていたのが由縁だ。
この様に永和には「おしゃれ」「清潔」「文化や歴史」といった現代人が町に求める要素とは無縁で、どちらかというと乱暴で雑な永和だが、私にとっては「人の手が紡いだ暖かい町」だった。
夏休み。近所のおばさんやおじさんは私たちのヒーローになってくれた
10歳まで過ごした永和。当時両親ともに朝早くから働いていたので、夏休みは、両親にとって仕事と子育てで大変な時期になる。そんな時には必ず、ヒーローの様な近所のおばさんやおじさんが永和にはいる。
そんな日の朝は、知り合いの近所のおばさんが私と兄を預かってくれていた。彼女は子どもが大好きで、主婦でありながら、自分の孫以外にも、他の近所の子どもの世話もしていた。
彼女の家は、まるで幼稚園のようだった。私は毎日他の子どもと一緒に遊んだり、おばあさんの仏教の音楽を聞いたり、自分より小さな赤ちゃんのオムツを変えたりしていた。
特別なことをしなくても、「今日オムツの変え方がわかったよ!」「今日は隠れん坊を遊んでた時に、良い場所を見つけたよ!」など毎日ワクワクしながら、お母さんに報告した。
「おばさん幼稚園」での私の1番の思い出は、時々連れて行ってもらった路地の入り口で有名な中華の焼臘(シュウラプ)レストランで食べるお弁当だった。
そこの店主は、私たちの顔を見るだけで、何が欲しいのか全てわかっていた。店主は、「今日はチャーシューハンね?」と言い、私が「そう!」と答えたそばから、店主の中華包丁が「トン、トン、トン」と高速でチャーシューをスライスし、隣のスタッフが弁当に詰めたご飯の上に乗せ、特製の肉汁を「ジワー」っとかけ、良い感じに煮詰まって茶色になった煮卵と煮豆腐、そして大根とキャベツの塩炒めを入れ、最後に大好きな漬物の干し大根を詰める。永和市民を笑顔で「謝謝(ありがとう)」と言わせる弁当だ。
血の繋がりを超えた、家族のような繋がりはずっと心に残り続ける
夕方になると、兄と私は家に帰るのだが、たまに鍵を忘れてしまう。そんな時には、家のすぐ近所の夫婦がヒーローになる。
その夫婦は豆花屋(トーファー)を営んでいて、私の親が帰るまでの間、よくお店で親の帰りを待たせてもらっていた。
「こんにちは、今日は何を食べたいの?」
いつも暖かい笑顔で注文を聞いてくれる。そして、店主は私の両親に連絡し、私たちの家が見える窓の席に座らせ、親が帰るまでに食べながら、私たちに不安をさせないように、今日の面白いこと、家族のことについて話してくれた。
永和に住んでいた当時、そこに住む誰もが、まるで家族のように私たちに接し、世話をしてくれた。そのおかけで、両親が忙しくそばにいない時でも、一度も寂しさを感じることもなかった。
そのせいか、会う人誰でも私の家族だという考え方で人と接する様になっていた。10歳から台北に引越し、学生時代では海外に出てから、永和へ訪れる機会が減ったが、永和で培った血の繋がりを超えた、家族のような繋がりで人と接する事は、どこに行っても大事にしている。
そのおかげで、今まで住んだり、旅で訪れた場所の先々で、家族の様に接してくれる人たちと出会い、上海、バンコック、インド、ドバイ、ロンドン、東京など、沢山の永和を感じる「ふるさと」ができていた。