高校生の時、演劇部で脚本家だった私は、自分だけの世界を広げ、それを誰かに観てもらうことが堪らなく幸せだった。
けれど、現実的に考えて脚本家や小説家で成功できる人は限られている。
自分では面白いと思った物語が万人受けするとは限らない。
一時期、様々な賞に応募したりもしたが、才能のない私は当たり前のように一次選考で切り捨てられていた。
そんな事が続くと、物語を作るモチベーションもいつしか消え失せ、私は世間一般で見ると「負け組」に属する人間に成り下がった。
けれど、2018年、衝撃の出会い(私の現推しとの出会い)を果たし、そこから妄想癖が再発した。

エッセイの採用が決まり、一筋の光が入り込んだような明るい気持ちに

そこから幾ばくか経ち、誰のためでもない自分だけの物語を作り始めた。
無理に審査員の視点を取り入れようとする必要のない物語を書くのが私にとっては楽しい。
けれど、やはり、人間は他人に自分のことを理解してほしいと思う生き物だ。
最早癖になっている公募ガイドのコンテスト一覧の中に、かがみよかがみのコンテストがあった。
今までも掲載されていたが、8/1〆切の『終わらない恋の理由』という特集に惹かれ、私は書いたエッセイを初めてこちらで投稿した。
「採用の際は3週間以内にご連絡いたします◎」
この一文を読み、どうせ今回も通過するはずがない、そう思っていたら次の日のお昼に返信が届いていた。
私はその時職場にいたにも関わらず、大声で感嘆し、職場の同僚から何があったのかと問いただされた。
その時の感覚は、まるで真っ暗な世界に一筋の光が入り込んできたかのような、はたまた暗雲の中を操縦していた飛行機の視界が開けたかのような、とにかく明るい心持ちになれた。
中学生の時、駅伝のメンバーの補欠に選ばれ、走り込んだ後のランナーズハイの感覚にも似ている気がする。
まぁ、のちにエッセイ掲載の採用率が高いことを知ることになるのだが、何にせよ「私の文章が誰かに認められた」その事実が嬉しかった。

執筆を止められない中毒症状が、きっと投稿している人にもあるはず

なんのために、人は文章を書くのだろうか?
私は、やはり自分の存在意義のために筆を取りたい。
仮に誰にも認められなくとも、私は執筆を止められないと思う。
けれど、誰か一人にでも、私のエッセイが目に止まり、何か感じてもらえたなら、それだけで書いた価値があるのではないかと考えてしまう。
書く理由など人それぞれだが、私にとって書く事が自分の為であることは違いない。
けれど同時に、それが誰かのためになって欲しいと願わずにはいられない。
そして、人は一度知ってしまった快感を簡単に手放す事など出来ない。
だから私は、今もこうして文章をしたためている。
そう考えると、ちょっとした中毒症状だ。
誰に迷惑をかけるでもない、自分の体に害を成すでもない中毒。
きっと投稿している方にも、同じ症状の人がいるに違いない。
そう思うと勝手に味方が出来た気持ちになる。
どこに住んでいるのかも、どんな風に過ごしてきたのかも知らない、名前も知らぬ同志。
もちろんそこまで考えるのはおこがましいが、そう思えるだけで少し嫌な事があった時の支えになる。
あるいは希望になる。
もしも職場やプライベートで嫌な事があれば、同じように考えて欲しい。
あなたの携帯電話にだって、無数の味方がついている。