私の家は、福島第一原子力発電所からおよそ25kmのところにある。事故当初、緊急時避難準備区域に指定された地域だ。2011年3月12日、福島第一原発で事故が起き、私は家族とともにおよそ150kmほど離れた祖母の家に避難した。
この「避難生活」は、当初考えていたよりも随分長く続いた。事故当時小学5年だった私は、そのままそこで高校まで卒業したのだ。
あれほど待ち望んだ帰郷であるはずなのに、自分だけ馴染めない
その生活の中で親友にも恩師にも出会ったが、いつもどこか感覚のずれのようなものを感じていたように思う。それが出身が違うことに因るものなのか、それとも避難してここにいるのだという認識がそうさせるのかは定かではなかったが、当然、私の中では望郷の念が募り、進路選択の際には故郷に貢献できる職を選んで進学した。
私が大学に進学した年、私たち家族は故郷に帰ることを選択した。私の将来的な希望を尊重した結果だった。
初め、私は何の他意もなく喜んでいたが、大学の長期休みに帰ってみるとなぜかどこか違和感が付き纏う。子供の頃遊んだ林はなくなり、代わりに復興住宅が建っている。かつての賑わいはなく、店はどこも早仕舞い。津波の被害を受けた海岸沿いには太陽光パネルがずらり。あれほど待ち望んだ帰郷であるはずなのに、馴染めない。家族はすっかり溶け込んでいるのに自分だけが浮いていて、異物のように感じていた。
私が帰りたかったのは、東日本大震災以前の「当たり前の日々」
変わらないものなどない。そんなことはとっくに知っていたはずだったし、理解していたはずだった。しかしそうではなかった。
つまり、私が帰りたかったのは東日本大震災以前の故郷であって、そこに帰ることができれば昔の「当たり前の日々」が戻ってくるのだと、愚かにも心のどこかで思っていたのだ、それも10年近くもの間。
そのことに気づいた時、私はこれまで故郷を離れて過ごしてしまった時間はもう変わらないのだと実感し、愕然とした。過ぎ去ったものが変えられないことも知っていたはずなのに。
目指していたものへの志も揺らいだ。だって無意味ではないか、帰りたかった場所はもうどこにもないのに。
そんな中で今般のコロナ禍が訪れた。その為に私は2020年度の多くを実家で過ごし、そして「新しい」故郷のことを一つ一つ知るようになった。
菜の花畑の迷路、整備しなおされた近所の公園、いくつかのスーパーマーケット、桜の綺麗な神社。私と同じだけの年月が過ぎた近所の人や、新しい家族の友人達。震災以前からあったものもなかったものも、知っていたものも知らなかったものも、新しく知っていく。
故郷とは私が帰ると決めた場所。受け身では手に入らない
そう、私とて長い「避難生活」の中で変化していたのだから、付き合いにブランクのある故郷とそぐわないのは当然のことなのだ。
しかし、こうして故郷の姿がこの身の内に蓄積され、私と擦り合わされていくにつれ、私の足は今やっと地に着き始めた。
私にとっての「故郷」とは、「私が帰ると決めた場所」のことである。故郷とは、たぶん受け身では手に入らないのだ。帰ると定めた場所で、一つ一つ思い出を、記憶を、感情を積み重ねてこそ、わがふるさととなる。その重みこそが私をふるさとへと惹き戻す。
ふるさとを知り、それによって私は、この地に貢献したいという志を、今度こそ正しく掴んだ。今後はこの志を果たすために邁進し、この身を磨こうと思う。