「君は翼を持っているのに飛び方を知らない鳥だ」
そう言った彼に出会ったのは今から約3年前。場所は、当時私が勤めていた東京のレストランだった。
長年憧れていた彼に職場で出会い、英語で声をかけたことが始まり
私は中学生の頃からその男性のファンで、しょっちゅうご来店されていたけれど、勇気を出してようやく話しかけられたのは、3度目に見かけたときだった。日当たりの良いバーテーブルの一角で、何やらノートを広げて本を何冊か読まれていた。近付いてみるとそれは、英会話の参考書と英語の単語帳だった。「しめた……!」と思った。
大学生の頃イギリスに留学していた私は、言語というコミュニケーションの入り口扉を変えると性格までもが変わる。その原因は、英語という“発信者責任型”である英語の言語的特性に他ならない。
「Hello, I’m your huge fun. It’s so nice to see you, sir. (初めまして。私はあなたの大ファンです。お会いできてとても光栄です)」
それが彼との出会いだった。長年憧れている人を目前にして、私は一気に舞い上がり身も心も軽くなったようで、いつも夕方から痛むパンプスでスキップして帰ったことを覚えている。
それからはお店で見かけるごとに少し会話を交わすようになって、私がたまに英語を教えたりもした。英語を習得して良かったと、あれほど強く思ったことは後にも先にもない。
どうして英語を勉強しているのかと聞くと、近々アメリカに行って自分の“腕”を試したいそうだ。
世間のタブーを、見えやすいものに変える彼。私もこんな人になりたい
有名人の彼は“ある時期”からメディアへの露出がぐっと減った。理由は明らかだった。日本ではタブーとされているあらゆる問題について、テレビという大きな媒体を通して世に発信したからだ。
私はその光景を目にした時、言いようのない満足感と不信感を同時に抱いた。本当に“それ”をテレビで言った人がいる。これは夢なのかも知れないと思ったから。その日から彼は、私のヒーローになった。
彼が日本を離れることを残念だと思う一方で、やっぱりかっこいいなと思った。私にとっては既に偉人の彼からはいつも「もっと広く、もっと知りたい」という熱意がふつふつと伝わってくる。どこまでも向上心があって、勉強熱心な人だった。恐らく何を成し遂げても満足しないんだろうな、とも思った。
きっと、その他大勢には見えていない景色が、この人の目には映るんだ。それは人の痛み、怒りといった目を背けたくなる感情、人の心だと思う。
彼はそんなチクチクとしたものに、ユーモアというクッションを挟んで優しく触れる。世間の目に入りにくいものを、見えやすいものに変える。強い人にしかできっこない。私もこんな人になりたいと思った。
飛べるのに飛ばない鳥だと言われて「目を覚ませ」と言われた気がした
私自身はどうだろう。ちゃんと真実を見つめられているだろうか。生きることは楽しいことだけじゃなく、むしろ人間はそうじゃない方にフォーカスしがちな気がする。だから楽に生きるために目を背ける。無関心は一種の防衛本能なのかも知れない。傷つかなくて済むから。
そんな私の迷いと葛藤と甘さが見抜かれたんだろうか。鳥ながらに飛べないペンギンだと言われるよりも、飛べるのに飛ばない鳥だと言われて「目を覚ませ」と言われている気がした。羽ばたいてしまったが最後、誰かに撃ち落されてしまうかも知れない。荒れ狂う嵐に遭遇してしまうかもしれない。
けれど彼を見ていれば分かる。そんな荒波を越えてきたからこそ、強くて逞しい翼に進化できるんだ。
飛ぼうと決めた。いつか力尽きるまで、いろんな空を飛ぼう。
しんどくなったら枝に止まってもいい。あえて温かい場所ばかり選んでしまう時期があったっていい。
飛び続けることさえ止めなければ、必ず“何か”に出会うはずだから。私が彼に出会ったように。