誰かを好きになるのには理由が在るのか、それともただ好きだということが彼に抱く全ての感情の理由なのか。そんなことを考えているとますます訳が分からなくなってくるし、そもそも恋愛中はそんなことを考えている余裕はない。

元カレに共通するのは、好きだったところが好きではなくなったこと

いつかテレビのバラエティ番組で、ある女性タレントが「恋愛こそ最大の洗脳であり勘違いだ」と言い切った人がいた。当時高校生でほとんど恋愛経験が無かった私には、彼女の言っている言葉の意味が分からなかった。もちろん価値観が全く同じ人間なんていないし、いろんな恋があるのだろうけど、なんて悲観的な人なんだろう。きっと悲惨な恋愛しかしたことがないんだろうなと思った。

20歳を過ぎた頃から今日28歳に至るまで、人並みに恋愛を経験してきたつもりでいる。私は「どんな人がタイプなの?」という質問に対して、いつも違う応答をしてしまう。今までの元カレ達にも全然共通点が見当たらないし、自分でもどんな人がタイプなのかあまり分かっていない。凄く抽象的な表現になるのだけれど、強いて言うなら「尊敬できる人」だろうか。それさえも私の心境やその時の状況によって変わるため、要はケースバイケースなのだ。

だけど、いつも一貫して共通する事実がある。それは別れの際、どの人も「好きだったところがそのまま好きではなくなった理由と化した」こと。

優しい高校時代の彼、ユーモアあるイギリス人、夢を追うバンドマン…

初めてのお付き合いは高校3年生のとき、私は彼の優しくて優しくてとにかく優しいところが好きだった。
私はすぐにイライラしてしまう性格でせっかちな方なので、いつでも温厚で優しい彼の性格に惹かれていた。そのうえスポーツ万能で野球がとても上手で熱心に部活に励む姿勢も尊敬していた。けれど付き合っているうちに、自分でも気づかないくらい少しずつ、彼の優しいところが仇となり、私の中の好きボルテージがどんどん下がっていった。私にとって「優しい彼」が「優柔不断で頼りない少年」に代わってしまったのだ。
二人目の彼は留学先で出会ったイギリス人だった。
彼はとても頭の回転が速く、みんなの意見をまとめられる統率力と誰からも好かれる愛嬌を兼ね備えていた。とても個性的な性格で、下校中に突然大声で自作のラップを歌いだしたときは心底驚いた。勉強中に突然私の肩に顎を乗せ、ニコッと少年のように笑った顔は今でも鮮明に覚えている。私にはないエキセントリックな部分と、何を考えているのか言動が予測不能な彼に心酔した。
けれど彼といる時間が増えれば増えるほど、次第に疲れてしまう自分がいた。もう私にとって「輝くユーモアを持つイカした彼」は「奇々怪々な言動をする怖いもの知らずのイカレ屋」になっていた。
三人目の彼はバンドマンだった。
何度聞いても聞き惚れてしまう程の歌唱力を持ち、夢を追う背中はまるで尾崎豊の生まれ変わりかと思うくらい輝いて見えた。詩的な言葉を話し、中性的かつ芸術的な感性を持つ彼は人懐っこく、それでいて気まぐれな猫のようだった。流れるように生き、私にはないニッチな感性とその類まれな才能を持つ彼に憧れていたのかもしれない。
けれど彼について知れば知るほど、どうしようもなく先の未来が見えなくなってしまっていた。「夢を追う孤高の芸術家」から「盗んだバイクで走りかねない流浪人」へと変身したのだ。

感情の波にのまれ、勝手に洗脳を解いて、本質から目を背けてきた

こうして思い返してみると、私はなんて自分勝手なのだろうと思う。勝手に美しい理想を彼らに投影し、そこから少しでもほころびを見せようものなら「思ってたのと違う!」と揚げ足を取るクレーマーのように文句をつける。なんだか彼らが少し気の毒だとすら思えてきた。
でも、今なら恋愛は勘違い発言をしたあの女性タレントの言ったことの意味が少し理解できるような気がする。見たいものを、見たいように、見たいところだけを見てきた私は、誰ともちゃんと向き合おうとせず、さらには独りよがりの感情の波にのまれ勝手に洗脳を解いては物事の本質から目を背けてきた。どの人も素晴らしい人間性を持っているのに、「恋愛」という色眼鏡はときに本質とは違うものを見せる。

その眼鏡をつけているうちは誰かを特別に好きになっても、いつかその人を特別に嫌いになる可能性があると思う。そうならずに長く太い関係を築くには、たまには裸眼で、出来ればスッピンで、お互いを少し冷静に見つめるニュートラルな時間も必要なのかも知れない。