私は産まれてからずっと、海のそばで暮らしてきた。
家から徒歩10分。大きな海があった。決して綺麗とは言えなかったが、すこし澱んだあの海が私を救ってくれた。

虚しさを感じ、私だけ高校から変われていないことに気付いたあの夜

去年の夏、高校卒業後初めて同級生と遊んだ。
コロナが少し落ち着いた頃、ご飯を食べてカラオケに行ってショッピングをした。
その頃私は周りの同級生達に、進路の事を誤魔化し、嘘をついていた。そんな中唯一真実を明かしていた同級生だった。

本当のことを話しているからか、嘘をつかなくてもいい楽さと、コロナ明けで開放感があったからかとてもとても楽しかった。
さっき集まったばかりなのにもうこんな時間?と驚き、別れを惜しみつつ手を振ると、ふと虚しくなった。寂しいのとは少し違う。心に穴が空いた。空っぽの虚しさ。

どうしてこんなに楽しかったんだろう、高校時代はこれぐらい楽しかったのか、それが今では……と考えてしまい、惨めで、虚しくなった。
学生時代は戻ってこない。だけど友達は新しい大学で新しい友達が出来、新しい生活で充実していた。自分だけ置いていかれたようで、悲しかった。

それはほかの同級生も同じ。高校の時に始めたインスタでは見たことのない子とご飯を食べているストーリー、オンライン授業の個人チャットで話すストーリー、久しぶりの対面授業で楽しそうに話すストーリー、皆新しい出会い、新しい自分に変わっていた。
比べて私は何もない。新しい出会いなんてないし、新しい環境にも出会ってない。高校から何も変わってない。 それに初めて気がついたのがあの夜。

声が出るくらい出る涙。好きなバンドの曲を聴いて、海へ向かった

amazarashiというバンドが好きだった。
どこか影のある、それでいて真を捉えた歌詞、比喩ばかりでなく真っ直ぐ届く歌詞、聞き入ってしまう少し嗄れた声が好きだった。
電車を降りた時にふと思い出してイヤホンをつけ、アルバムの1番上にある「光、再考」をきいた。

水音のような優しい音からはじまり、段々心の叫びのような歌詞に変わっていく。曲が盛り上がるにつれ自分の心も奮い立たされ、涙を堪えながら聞いていた。

曲も終盤、次の曲は何だったっけなと考えるぐらいに余裕はあった気がする。だけど曲の最後に言い聞かせるようにしておわるあの歌詞を聞いた瞬間、涙が堪えきれなくなった。夜中だったからよかったものの、声が出るぐらい涙が出た。その歌詞を聞いた安心感からか、喪失感からかわからないが、ただただ涙が出た。

家に着くまでに泣き止むことができなかったので、海に向かうことにした。道中写真を撮ったりしていたが、何故そこで写真を撮ったのか今では覚えていない。
覚えているのはセブンでアイスコーヒーを買って、海でゆっくりしようと考えていたことだけ。
数分後海に着いた。その間はずっとamazarashiを聴いて、訳の分からない涙を流していた。

道端に咲く花のように美しくなりたい。自分らしく生きるということ

マスクはもうびしょびしょで、人もいなかったからバックにしまいこんだ。あたりは真っ暗で何も見えない。光もない。どこを歩いていいのかもわからない。どこからが海でどこまでが砂浜か、それさえわからなかった。
だけど、それまで止まらなかった涙が、真っ暗の海を見て止まった。 恐怖だ。涙をとめたのは励ましの言葉でも温かい存在でもなく、恐怖だった。真っ暗の海に吸い込まれそうでゾッとした。海に着いた、と記念の写真を撮る手も震えるぐらいに。

海に着く前は、サンダルをほっぽってすこし海に浸かろうかな、行ったことのないぐらいまで入っちゃおうかな、なんてウキウキで考えていた。
だけどあの時、きっと海は入るなと言ってくれたんだと思う。きっと入っていたらよからぬ事を考えていたと思う。そんな私を恐怖で追い返してくれたのだ。

家に帰ってからamazarashiについて少し調べてみた。
バンド名の由来は「日常に降りかかる悲しみや苦しみを雨に例え、僕らは雨曝しだが“それでも”というところを歌いたい」。

それでも。 涙でびしょびしょになった私を鏡で見た。
目はパンパンに腫れ、髪はボサボサで、顔は真っ赤だった。
こんな人生のどん底を表したかのような人間が、ここからどんな人生を歩めるのか、一般的な人生に戻れるのか、絶望でしかなかった。だけどそれでも、それでも、自分なりに、自分らしく生きていきたい。

そしていつかは雨ざらしでもどこか美しい、道端に咲く花のように、目を引く存在になりたい。