祝ってもらうのは嬉しいけど、数年前から誕生日は一人旅すると決めた

数年前から、誕生日には一人旅をするようになった。彼氏がいても、友達と旅行の話が出ても、ごめんなさいと断る。断るにはちょっと勇気がいるけど。
「他に予定があるんでしょ」「一緒に過ごすのが嫌なのか」「変わってるよね」、と色々なことを言われる。それでいい。その反応は私が私を形成していく上でいいスパイスとなっている。

賑やかな雰囲気は大好きで、”人数は多いほうが楽しい”タイプに属していると思う。だけど一人の時間って必要で、ベッドの上で何時間も携帯を見ているような時間が欲しい。案外こういう人ってたくさんいる。私はそこに、外へ出掛けるという行動力が備わっただけ。まあ、誕生日に決行するっていうのがおかしいのかな。
祝ってもらえるのは嬉しい。誕生日って大好き。「おめでとう」とともに添えられた言葉にはその人からの愛を感じる。私を考えてくれた時間を思うと、「あなたたちがいるから私はここにいるのよ」と感謝で溢れる。だけどそこが少し問題で。いや、問題というか、私の性格がなんともひねくれている。

周りからの愛を実感するたび、無力さを痛感する私の狂った思考回路

「あなたたちがいるから今がある」。
じゃあ、私って何の為にここにいるんだっけ。何者なんだろう。何も持っていない、何も出来ない。また歳をとり、人からもらう幸せを食いつないで生きている。私は何をしているんだろう。幸せってなんだっけ。
周りの愛に支えられていると実感するたび、自分の本質がいかに無力か感じてしまう。もう、自分でもどういうことだよ!と笑ってしまうほど思考回路が狂っている。

そうして焦った挙句、これからに向けた目標と幸せを語り、私は立派だと無理やり自分に言い聞かせる。本当は空っぽなのに。昔から努力せず何事も人並みに出来た私は、全力で頑張ったといえる記憶がない。いつだってそんな自分に劣等感を感じていた。でもそんな自分を「やればできる」と過大評価して生きながらえてきた。なんて図太い神経。ジャイアンにも叱られそう。

そんな私に訪れた、何度目かの誕生日、友達からの誘いが重なった。
どちらに行ったら私を盛大に祝ってくれるんだろうか、と勝手な期待をした自分に心底嫌気がさした。期待するくらいなら、もうどっちも断っちゃおう。それが誕生日一人旅のきっかけだった。

毎年誕生日は海のある街へ。自分と向き合い、再確認する大切な時間

海に沈む夕日が大好きだったから海がきれいな街へ、宿のみを決めて向かう。ふと見つけた定食屋でおすすめの居酒屋を聞き、その居酒屋でおすすめの観光地を聞く。
みんな、女一人でいることに興味をもち、誕生日だと聞くと驚く。 見ず知らずの私を、温かく祝ってくれる人もたくさんいた。今後その人たちからの愛はきっと受けることなく、人生の中で短編ストーリーとして記憶に残る。

そんなストーリーの中は適度な温度で気持ちが良かった。39度の露天風呂のような感じ。熱すぎず、私が私と向き合う余裕をくれた。
海でお気に入りの曲をかけながら夕陽を見る時間は、私という存在がどんどん明確になっていく気がした。ちなみに誕生日は1月でかなり寒い。(冬の海に1時間以上ぼーっと座っている女は危ないのか、警備員さんに声をかけていただいたこともある)

それでも毎年誕生日には、一人海のある街へ出向く。何にも期待せず、自分で自分を愛でる。不甲斐ない自分と向き合い、好きなものを再確認する。
私が、私を幸せにしたい。研ぎ澄まされた自らの意思を確認して、それを頼りに今年も過ごしていこうと誓うのだった。
「他に予定があるんでしょ」「一緒に過ごすのが嫌なのか」「変わってるよね」 。そう言われるたびに捻くれ者は思う。私は今日も自分を保てていると。