私の父は慢性喘息。私が小学4年生のときに、父の肺の摘出手術が行われた。
その日から肺が1つしかない身体になった。ペースメーカーを入れたくなかった父は、自力で生きてきた。
そんな父は、私が高校3年生のときに自宅療法をすることに。家には、酸素吸入器が設置されていて、持ち運び用の酸素ボンベが2本常備されている。
病院でしか見たことがない機器が、家にあるなんて不思議。働けなくなった父がとった行動は、家事を全うすることだった。

夜中に料理の練習をする父の姿は、なぜか弱々しく見えた

「こんなの食べたくない!」
まだ小学4年生だった私は、父が作る料理が嫌いだった。ただ焼くだけでいいウインナーが辛い。揚げるだけでいい冷凍食品のフライドポテトが焦げている。
「なんでこんなものを食べないといけないの」
幼かった私はご飯の時間が辛かった。レトルト食品でもいいから普通に食べたい気持ちでいっぱい。当時の私は文句を言いながら、口にできるものだけを食べて残していた。あまりにも食べない私に、父は手を焼いていただろう。

ある日の夜中、トイレに行きたくなって1階にあるトイレに向かった。すると、キッチンスペースだけ明かりが照らされている。「消し忘れかな」そう思いながらキッチンに向かうと父が立っていた。びっくりしてバレないように物陰に隠れて様子を伺った。
父は、何も呟かずに黙々と作業をしてる。5分ほど観察していると、料理の練習をしていることがわかった。思い返せば、父の手に絆創膏が貼られていたことを思い出す。
「私のために練習していたんだ」
幼いながらも、父の行動を理解した私。努力をしていても、私に認めてもらえないと自信に繋がらないんだきっと。母が言っていた。父は頑固だと。
キッチンを横切るときに「睡眠時間削ってまで料理しなくていいよ」と思わず声をかけた。
父はただ一言「うん」しか言わなかった。

気づいたら父のことが好きになり、主夫である父を誇りに思った

朝食のとき、夜中の出来事を互いに口にすることはなかった。ただ1つだけ、その日から変わったことがある。それは、父の料理を残さずに食べるようになったことだ。
素直に言えばおいしくない。けれども、頑張って作ってくれた料理はおいしそうに見えた。
本当は、見た目も悪いんだけどね。フィルターがかかったかのように、当時はおいしく見えたんだ。
あの日の光景を目の当たりにしてから、私は父が大好きになった。同時に、主夫である父を誇りに思った。

月日は流れて、私は中学高校と進学した。中学高校はお弁当が持参になる。私のお弁当は、もちろん父が作っていた。
お弁当の中身はいつも一緒。1段目に白ご飯があって、2段目は冷凍食品のパスタやハンバーグ。初めてお弁当箱を開封したときは、「まじか」と心の中で呟いた。
まさに男飯。唯一の手作りは卵焼きだけ。でも、父の作る卵焼きには必ず殻が入っていた。
最初は文句を言ったけど、改善されることなく6年が過ぎた。ここまでくると、殻入りの卵焼きに愛着が湧く。大人になった今は、父が作る殻入りの卵焼きが恋しいものだ。

完璧でなくても私のために行動し、見えない優しさを教えてくれた父

私が寝てるときや、家にいないときに父は発作と戦う。肺が1つしかないなら、息切れも早いものだ。だから、時間をかけて行動する。朝は起こしてくれたり、3食作ってくれたり、洗濯物を干してくれたりとしっかり家事を全うしてくれた。健康な人よりかは、苦労しただろうに。
約11年、私の前で一言も文句を言わずに家事をする裏では、涙を流していたことを私は知っている。完璧でなくても、毎日私のために見えないところで行動してくれた。それで十分だ。
感謝しきれない愛情を注いでくれてありがとう。長生きしてね。