「ふるさと」ってなんだろう?そう考えた時、以前の私なら迷わず、「生まれ育った街!」と答えたことだろう。17年という人生経験の浅さがそうさせていたのかもしれない。
でも、19の夏、今ならこう答える。私にとって、「ふるさと」とは……。
友達はできず、ずっと家にいる毎日。思い描いた大学生活とは程遠い
私は都内の大学に通う大学2年生だ。入学からずっとオンライン授業で、未だに大学に通ったことはない。
そんな中迎えた、大学に入って2度目の夏。思い描いていた大学生活とは程遠いものになってしまった。友達は思うようにできず、中高は私立だったため地元に友達は1人もいない。
夏休みにすることもなく、朝から晩まで家にいる毎日。コロナ禍の前は、友達と遊んだり、田舎に帰ったり、夏休みの宿題に追われたり。それが当たり前だと思っていたし、ずっと続くと思っていた。
でも、違った。
コロナで大学の友達はできなかったし、田舎には帰れないし、大学に入ったら夏休みの宿題はなくなった。
高校生から大学生になるという変化と、コロナ禍という社会の変化と両方に飲み込まれて、私は変わってしまった。
私の居場所はどこ?私に帰れる場所はあるの?
孤独を感じるようになった。
私が本当に帰りたいと思った「ふるさと」は、祖父母の住む田舎
「ふるさと」だと思っていた、19年間生まれ育ったこの街に、友達と呼べる人は1人もいない。高校を卒業するまで、地元に友達が1人もいないことなんて、一度も気にしたことがなかった。私が帰ってくる場所はこの街だと信じて疑わなかった。コロナ禍になって、私にとって、この街はふるさとじゃなかったと気づいた。
私の本当のふるさとはどこにあるんだろう?
悶々と過ごして2度目の夏。私が本当に帰りたいと思ったのは、祖父母の住む田舎だった。
飛行機で、毎年夏になると家族で帰っていた田舎。
祖父母と、叔父達一家の2世帯で、賑やかな夏を過ごしていた。都会の喧騒を忘れ、久しぶりに会う祖父母の愛を感じながら、一年で一番のんびり過ごせる時間だった。
田舎に帰ると、遠くから来た久しぶりに会う孫に、祖父母はとても喜んでくれた。祖父母に会うと、自分が愛されているという実感があったし、自信を持てた。祖父母だけは本当に私のことを愛してくれていると感じられた。祖父母に愛されている自分を、自分自身も愛することができた。たぶん、人は誰かに愛されているという自覚があれば、自分も自分を愛することに自信が持てると思う。
その祖父母に会えない2年間、気づかないうちに、自分自身を愛する機会を失っていたのかもしれない。愛されている自覚がないから、自信を持って自分を愛せない。認められない。家でオンライン授業を受けるばかりで、人とのつながりもなく、課題に追われていた日々と、夏休みの虚無な毎日の落差に、体がついていけなくなっていたのが最近の私だ。自分を愛するなんてことは忘れていた。
私にとっての「ふるさと」とは、自分をまるっと愛せる場所
しかし、田舎に帰っていないからといって、祖父母が私を愛していないわけではない。私が愛されていることを忘れているだけだった。もし、祖父母が死んでしまっても、祖父母と過ごした田舎は、私にとっての「ふるさと」だ。
「ふるさと」を考えるにあたって、場所そのものがふるさとなのではなく、そこで過ごした時間と思い出が、その街に刻まれていることをいうのでは、と思うようになった。
「ふるさと」は一人一人違う場所、違う思い出が刻まれている場所だと思う。生まれ育った街がふるさととは限らないし、行ったことのない場所がふるさとの人もいるだろう。これからふるさとと思える場所が、変化する人もいるかもしれない。
私にとっての「ふるさと」とは、自分をまるっと愛せる場所だと思う。
来年は「ふるさと」に帰れるといい。