私のふるさとは、私が生まれ育った栃木県宇都宮市。
大学に進学して秋田に引っ越しても、地元への思い入れは強い。
このご時世で一年は帰っていないが、その前は大学が長期休みに入るたびに帰省していたほどには大好きな町。

ただ、帰省のたびに私の頭をよぎる思いがあった。
「私はどこに『帰って』いるのだろう」

地元から進学先の秋田へ。大学二年生の頃、秋田も帰る場所になった

大学の友人には「休みの間は宇都宮に帰るよ」と言う。
一方、地元の友人には「月末には秋田に帰るよ」と言う。

新幹線の窓から地元の街並みが見えてくれば「帰ってきたなぁ」としみじみする。
そしてSNSに「宇都宮に帰ってきた」と載せる。
荷解きをした後に忘れ物に気づき、「帰るまでヘッドホンは使えないな」と呟く。
部屋が散らかれば、親に「すぐ帰るんだから汚くしないの」と小言を言われる。

宇都宮駅に乗せていってくれた親に「次は冬休みに帰ってくるから」と手を振る。
新幹線の窓から雪が見えてくれば「帰ってきたなぁ」としみじみする。
そしてSNSに「秋田に帰ってきた」と載せる。
どっちに行く時も「帰る」という表現をしている。

それに気づいたのは、幾度か帰省を重ねた二年生の頃。
新幹線が秋田駅を発車して見慣れた街並みが流れていくのを眺めている時に、自分にとって秋田も「帰る場所」になったことを感じた。

一年生の頃は、「帰る場所」は確実に宇都宮であり秋田はあくまで異郷でしかなかった。
しかし秋田での思い出が増え、秋田を知っていくうちにいつの間にか秋田も帰る場所になっていたのだ。

帰る場所が二つもあるなんて、一見素敵なように思える。
だけどその時、私は漠然とした不安感をおぼえた。
だんだん山ばかりになる景色をぼんやり見ながら考えてみる。

新幹線の中で感じる不安。「帰る場所」がないような気がしてならない

宇都宮に帰るということは、秋田はあくまで一時的な滞在先だったということ。
同様に秋田に帰るということは、宇都宮はあくまで一時的な滞在先だったということ。
不安感の正体は、その矛盾だった。

新幹線の中というのは、それを強く感じさせる場所だ。
あれだけ帰りたがっていたのに、複雑な気持ちになる。
帰省の道中、本当の意味での「帰る場所」がないような気がしてならない。

その分、駅に着いてしまえば見慣れた風景にどっと安心感に包まれる。
それは何度帰省をしても、変わらずに感じる。
私はその起伏が嫌いではない。
私にとって、不安と安心を含めての帰省だ。

宇都宮は東京からさほど遠くない。
東京駅から宇都宮駅までは、電車で2時間、運賃は2,000円弱。
上京せずに実家から東京の大学に通う人もいるくらいだ。

一方、秋田駅から宇都宮駅は新幹線を使っても3時間半かかる。
運賃に至っては8倍以上の16,700円。家から秋田駅まではバス、宇都宮駅から実家までは車に乗る分を入れれば、全部で5時間、17,000円強。

ここまでして帰省したいと思えるくらい、私にとって宇都宮は帰りたい場所だ。
そして宇都宮だけでなく秋田も、帰ってきて安心できる場所だ。
しかしその道中、自分の帰属意識があいまいで宙ぶらりんになり、不安を感じる。

きっと電車で2時間の距離だったら、運賃が2,000円だったら、ここまで複雑な気持ちは抱かなかっただろう。
上京した友人にこの話をすれば、大げさだって笑われるかもしれない。
けどこれだけの時間とお金をかければ、「帰る場所」を意識するのだ。

一年もしていない帰省。みんなが早く「帰る場所」に帰れますように

私の帰属意識はどこにあるのだろう。
どこが私の「帰る場所」なのだろう。
そんな不安を抱えながら私は新幹線に揺られる。
その時間が嫌いではない。

長い時間と高いお金を費やしてまでする帰省の醍醐味の一つとも言える。
以前は三か月に一度は帰省していたのに、もう一年もしていない。
次に帰省できるのはいつかわからないけど、安心して帰ることが出来るようになるまで待つ。

どれだけ帰省したくとも、それは必ず守る。
私を含め、みんなが早く「帰る場所」に帰れますように。