自分は高校3年生の夏合宿の引退まで、硬式テニスをしていた。
高校3年の春大会。これが公式試合では最後の大会だった。
負けたらそこで終わりという崖っぷちに立たされていたが、1、2年時の大会成績が認められ、予選はシード権をもらい、2回戦からの出場だった。
試合の1日目。
この日は、2回戦、3回戦を順調に勝ち進んだ。

本選前の最後の大会。だけど、この日のコンディションは良くなかった

2日目。
4回戦。予選の中ではここがセミファイナル、準決勝。
5回戦。ファイナル、決勝。
だけど、この日のコンディションは全くといっていいほど、調子が良くなかったのだ。
「いつもの慣れた体操もウォーミングアップも全部やったはずなのに」
4回戦の試合が始まった。
あれ。3分間ウォーミングアップでも感じていたけど、やっぱり、調子がおかしい。
苦戦したが、なんとか試合に勝つことができた。
とりあえず1つ目。勝てて良かった。
ひと安心した。
よし。あと1つ。
最後の大会だし、本選にいきたい。

決勝の試合が始まった。
調子は戻らない。
そうだ。気分転換に、ラケットを変えてみよう。
何かが変わるかもしれない。
ラケットを変えて、試合に戻る。
その1ポイント目。
ラリーを何度か続いたのち、
“ブチッ”
「えっ」
そう思った時には、もう遅かった。
ラケットの網が、切れていた。
ルール上、網が切れた状態での試合続行は禁止されているので、ついさっきまで使っていたラケットに戻した。
握った瞬間に嫌な予感がした。
その嫌な予感は、見事的中した。
その試合に負けたのだ。
それまでに経験したことがなかった。
不調の中で試合をどう進めれば良かったのか、そのときになって初めて考えてみた。
たとえ自分が不調でも試合は、どちらかが勝って、どちらかが負けるまで、試合を続行しなければならない。

目標を叶えられなかった経験が作った、ネガティブなもう一人の私

選手生活が終わった。
それまで順調にもらい続けていた、本選に勝ち上がった選手だけがもらえる金属、もしくはプラスチックの、そのときの大会のロゴマークの入った裏に自分の名前が刻印されたネームプレートがある。
最後のネームプレートは、もらえずに高校最後の大会は終わってしまった。

引退の夏合宿のあと、顧問の先生から言われたことがある。
「シングルス、本選に上がっていたら、団体戦メンバーに選んでいた。なんだ、珍しいじゃないか。調子悪かったのか?」
それを聞いたとき、すごく悔しかった。
悔しかったのももちろんあるが、それだけではない。
それまでにあった練習試合、遠征試合で任されていたシングルス、どれだけ顧問の先生の信頼があって任されていたのだろう。
何であの試合に負けたんだろう。
自分を責めた。
自分の中に目標として掲げていた、団体戦メンバーに入るという目標は叶えられないまま。

この経験のせいかな。
なんでもやってみたいとは思う。
なんでも挑戦してみたいとは思う。
だけど、そう感じた1秒後には「やる価値なんてないよ」「やる意味ないって~」
自分の中にいるもう一人。ネガティブな方が出てくる。

ネガティブな自分になり、決断を迷ったときに決める基準は

ネガティブな自分になったとき。やるかやらないかで迷ったとき。
自分の中で決める基準はこうだ。

1・やってみる価値があるかどうか
2・心が突き動かされるほうはどちらか
3・自分が笑顔になれると思う方はどちらか
4・やらないという選択肢も必ず持つこと
5・やらないという選択を選んでも必ずしも逃げだと思わないこと

これに気づいてからは、選択肢の中でどちらかを選んで何かを決めないといけないとき、迷ったとき、立ち止まったとき、そのとき初めて自分自身に問いかけてみる。
「ねぇ、自分はどうしたいの?」
生きていかなきゃいけない中に、選択肢っていくつもあるのに、いつも音もなくやってきて。
決めたら決めたで、また次のものがやってきて。
本当にいつも無責任だよな。
慌てて決めることでもないし、気軽に決められることって、人生の中でどれくらいあるんだろう。
そんなものに、生きている間にどれくらい出会えるのだろう。
あれからもう何年も経っているけど、たぶんあのときの教訓が、今の自分をつき動かし続けていくんだと思う。