私は良くも悪くも、社交辞令を含めた軽い約束、時には約束ですらないことをしっかり覚えている方だ。人から言われたことはもちろん、自分から「~~しよう」「~~するね」と言ったことは特に。

だから、それを果たせなかったことに対して罪悪感を覚えたり、相手の約束との認識度合いとにギャップを感じて勝手にあれこれ考えたりすることが結構多い。特に、かつて同じコミュニティにいたけど今は離れ離れになった人に対してこういうことが起こりがちだ。

ボロボロ泣いて友達を見送り、絶対に手紙を送るね!と約束したのに

思えば、私が初めてそんな風に感じたのは、小学生の時。
4年生で同じクラスになり、仲のよかった友達がお父さんの仕事の都合でアメリカに行ってしまうことになった。2年後には必ず戻ってくることがわかっていたが、10歳の子供にとっての2年間はとてつもなく長い。

友達の最終登校日にはボロボロ泣きながら見送り、絶対に手紙を送るね!と約束した。

しかし、手渡しの手紙交換をどれだけしていても、郵送となるとハードルは一気に上がる。ましてや国際郵便だ。手紙は書くだけ書いたのだが、やっぱり出し方がわからなかった。そして何より、周りの大人に聞いて実行するだけのことができなかった。

2年後。6年生の夏休み明けに友達は帰ってきた。
久しぶりに会えた時、私の口から出てきた最初の言葉は「おかえり」でも「久しぶり」でもなく「手紙、送れなくてごめんね」だった。友達は「謝らないで」と言ってくれた。私だけでなく、住所を教えた友達のうち本当に手紙を送ってくれた子は誰もいなかったのだろうか。それとも、本当に気にしていなかったのだろうか。

もう10年以上前のことだが、今でもこうして文字に起こせるくらいはっきりとその時の感情を覚えている。そしてそれは、今でも変わらないのだ。

有言不実行をあれこれ考えたのに、相手はそんな風に思っていなかった

大学生になった私は、ある友達に恋愛のことで話を聞いてもらっていた。その友達と離れ離れになってしまうタイミングで「どうなったか報告するね」と言って別れた。

結局、相談していた内容の決着がついても連絡できずにいた。わざわざそのためだけにLINEを飛ばすのもなんか違うと感じたのだ。それでも「報告するね」と言っておきながらできていないことに対する後ろめたさのようなものがあった。

それから1年半。会う機会があったので「そういえばずっと言えてなかったんだけど」と切り出し、やっと話せた。そんな私の思いに反し、相手は「ああそんなこともあったね、そうなんだ」と返してきた。

私は自分の有言不実行に対してあれこれ考えていたのに、相手はそんな風には思っていなかったのだ。それを責めるつもりはさらさらないのだが、自分の考え方、捉え方を見つめ直すきっかけになった。責めるつもりはないと書いたが、正直に言うと、私の「~~するね」ってそんなもんか、とモヤっとした。

私が誘いや提案をするときは、いつだって本気。社交辞令ではしない

私は社交辞令で誘いや提案、意思表示をしない。本気にされたら面倒だからだ。
その代わり、私がそのようなことを言うときはいつだって本気なのだ。しかし、周りの人もそうとは限らないようだと気づいた。

口にしたことを果たさないことで、信用を失うのが怖いと潜在的に思っているのか。こういう考え方が自分を生きづらくさせているのはわかっているけど、なかなか変わらない。

余談だが、アメリカから帰国した友達とのその後について。彼女は私とは違うクラスに編入し、住んでいる地区も違ったのでほとんど話すことのできないまま卒業を迎えた。そしてそのタイミングで今度は私が県外へ引っ越してしまった。手紙もメールのやり取りも一度もなく、彼女が今どこで何をしているのかはわからない。今会えたとしても何から話していいのかわからないくらいだけれど、元気でいてくれたら何よりだ。