綺麗に水平線が見える街です。空が広くて、琥珀色の砂浜に甕覗(かめのぞき)色の波が美しい、潮の香りのする街です。10年経っても変わらないのはこの海だけですが、とてもとても綺麗な街です。
皆さんは遺体安置所を歩いたことがあるでしょうか。わたしは母に凄い剣幕で行くのを止められましたが、何も怖いものはないと思ったのを覚えています。だって流されていくひとを、死にゆく街を、誰にも手を差し伸べることはできない無力感を抱えながらずっと見ていたのですから。

12歳で被災者になったわたし。今の故郷を愛しているかわからない

大きな津波を目の前で見るというのは、とてつもなく衝撃的な経験でした。当時小学生だったわたしに受け入れられる現実ではありませんでしたが、そのあとの10年のほうがよほど苦しいものだったと思います。
わたしは12歳で被災者になり、頑張れ頑張れと世界中から言われて、思い悩みました。わたしは何も可哀想ではないのに可哀想だと言われ、「普通に生きていても頑張らなきゃいけないの?」と思ったこともあります。今思えば屁理屈な恩知らずでした。しかし、幸い「頑張れ」ではなく、「頑張ろう」と言ってくれるひとにも多く出会い、彼らに救われて生きてきました。
しかし、ひとつだけ、受け入れるのが難しかったことがあります。今の故郷を愛しているか、いつもわかりませんでした。埋め立てされた時期までは、まだ、大丈夫でした。海の近くまで行く勇気を得るには年月を要しましたが、更地の自宅まではよく行ったもので、お盆には迎え火をしました。

綺麗に生まれ変わる故郷。やるせなさや歯がゆさと戦ってきた日々

ただその後、道路が整備され、自分の家がどこにあったか思い出せなくなりました。学校も、お花屋さんも、幼馴染と待ち合わせた交差点も、朧げになりました。
「ここで○○さんのご遺体が発見されたのよ」、「この家は地震の時点で崩れていて」。そんな凄惨なことを聞いても歯を食いしばれば受け入れられたのに、微かに、それはそれは静かに自分の記憶が薄れゆくことには耐えられませんでした。
現代的に便利に綺麗に生まれ変わる故郷はどう考えても良い街なはずなのに、ずっとずっと苦しかったのです。ただでさえ実家が大好きなので、きっとわたしは普通の大学生より帰省する人間です。だから、「変化を見てなかった」なんてことが起きるとは思わなかった。
お彼岸、お盆、長期休み、そして3.11。留学していた年だって、少なくとも年に5回は帰ったのに。帰るたびに知らない街になっていました。今は、大きなスーパーができて、洗練された教育機関ができて、温泉までわきました。
地元を離れた進学校で知識を得て、上京して多様性に寛容になり、留学して俯瞰的に地元をみて、この田舎の海の街に何か還元しよう。その決意が痛手になったかもしれない。12年もそこにいたのに、風化させないでって自分で言っていたのに、わたしが忘れちゃう。自分のやるせなさや歯がゆさと戦ってきた10年でした。

たった35発の花火で、故郷の変化を少し好きになれていると気づけた

今年のお盆は、たった35発の花火大会がありました。会場は移転せずにちゃんと故郷。コロナのせいか大々的に行えないので、人はほぼ来ていませんでした。たかが35、されど35。「ああ、好きだったなあ」って涙が出ました。
整備された道路、だだ広い更地。潮の香りが微かにして、夜空が広く見えました。知らない土地のようでしたが、なんとなく、変わっていないものに気づけた2分間の打ち上げ花火でした。
リモート出勤に切り替え、PCRを受け、夜行バスではなく新幹線、あと隔離も。時間とお金をかけてでも帰ってきたかったんです。その結果出会えた自分の変化に安心しました。故郷の変化も、大人になった自分も、まだ受け入れ切れていないけれど、たぶん、少し好きになれていたんだと思います。

風化させないでってもう言わない。今の故郷を一緒に愛してほしい

早起きして一番乗り目指して幼馴染と走った通学路も、蝗とりをした黄金色の田んぼも、青々とした松林も、学校帰りに「おかえり」と声をかけてくれたお茶飲みおばあちゃんたちの声も、ザリガニ釣りをした畦道も、津波が来たときの怒号も、あの人が見つかったあの場所も、初めて踏み入れた新しい街並みも、多分もう如実には思い出せないけど、ちゃんと過去として好きになっていました。
その瞬間ごとの今を作る応援をしてくれたり、たまに思い出してくれたり、足を運んでくれたひとへ。わたしは無力なりにできることを模索している若干21歳です。海生まれ海育ち、東北の子。少しずつ今の故郷を好きになっています。風化させないで、忘れないでってもう言わない被災地の子です。
海だけは綺麗で、ずっと変わらずある街の出身です。わたしも忘れちゃうから、どうか今を一緒に愛してくれると嬉しいです。宜しくお願いします。