転勤族だった私にとって「出身地どこ?」は嫌いな質問だった
「私達にはふるさとなんてないもんね」
よく、姉とした会話だ。
転勤族故、幼い頃度々引っ越しを経験してきた。今は関西に長く住んでいるが、姉も私も自我を形成する小学生時代に3回転校したからか、ふるさとというか、地元というか、思い入れのある土地はなかった。
親戚のいる県がテレビに映ると騒いだりするが、例えば縁起でもない話、自然災害等でその土地に住めなくなったとしても、私達は躊躇することなくその家を去ることが出来るだろう。ポジティブに捉えれば環境適応能力が高いとでも言おうか。
「出身地はどこ?」
私達が嫌いな質問だ。関西滞在歴は長いが、関西弁を喋れない。
関西にいれば、「標準語だね。出身地どこ?」。
関西を離れると、「出身地どこ?」「(滞在歴が長い)大阪です」「関西弁喋って」「転勤族だったので……(以下省略)」。
昔は自分の境遇が嫌な時もあったが、大人になってからは様々な出身地の方々との話のネタにもなり、実はとてつもなく良い経験をしていたんだと実感した。幼馴染みには憧れるが……。
急遽下された辞令。向かったのは郡と町が共存する宇都宮の隣町
「来週から一人で宇都宮工場へ行ってください。期間は三カ月」
入社二年目の秋、研究所勤務の私に急遽下された辞令だった。理由は人手不足。会社勤めたる者の宿命だ。余程の理由がなければ拒否はできない。私は首を縦に振るしかなかった。
期間限定とはいえ、自分の初めての案件を引き継がなければならないこと、最後まで見届けられない悲しさ。たった三カ月とはいえ、製造現場に女一人放り込まれること、果たして人員不足解消の役に立てるのかだろうかという不安。
「私には環境適応能力がある」。自分に言い聞かせた。
心の準備をする間もなく引っ越しをむかえた。駅に着いたら社用車として用意されたレンタカーを借り、某マンスリーマンションへ向かった。私はペーパードライバーで運転に自信なんてもちろんなかったが、そうするより他なかった(後に国道を走っていたことを知る。運転に自信が付いた……気がした)。
塩谷郡高根沢町。郡と町が共存する住所なんてあるんだと二十五歳にして知る。
街……町並みは近くにスーパーもコンビニも薬局も百均もある。何より車で十五分も走れば着く「元気あっぷ村」という温泉施設が私を喜ばせた。私、やっていける。
あの町に支えられたから今の自分がいて、成長したことを感じられる
高根沢生活がスタートした。
平日は力仕事でへとへとだったが、通勤は宮内庁御料牧場で放牧されている牛達に癒され、木曜日は自宅から徒歩二分のフランチレストランでディナー、花金は元気あっぷ村へ温泉兼夕飯(数量限定の高根沢ちゃんぽんが残ってる日はラッキー)。週末は市街地を散策し、夜は元気あっぷ村。これが私の過ごし方だった。
仕事がつらくても、元気あっぷ村を楽しみに頑張ることが出来た。毎晩来てるんだろうなと思われる地元のおばあちゃん達の井戸端会議をBGMに夜空を眺めながら入る露天風呂。
満月の日は格別。のぼせてきたら湯船から少し出て、肌寒いけど澄んだ空気を浴びてを繰り返し。閉店時間ぎりぎりまで堪能した。
徒歩四十分の最寄り駅、宝積寺ちょっ蔵広場では催し物がよくあり、ハンドメイド雑貨販売や飲食店が出ていたりして、そんなイベントも楽しみだった。仕事は大変だったけれど、充実した三カ月を過ごすことができた。
あれから三年近く経っても私はよく高根沢を思い出す。餃子を食べれば「焼き水(やきすい)1、1」という頼み方を知った日を、アイスを食べれば高根沢ジェラートを、満月を見れば元気あっぷ村で見た日を思い出す。
「人が成長を実感するのは、環境が変わったときです」
ある人がこんな言葉を言った。そして私はどうしてこんなにも高根沢を思い出すのか気づいた。私を成長させてくれた町だからだ。
仕事が大変で体重もどんどん減っていった。だけど私がお役目を果たせたのは、職場の人たちに恵まれたのももちろんあるけど、あの町が私を支えてくれて今の自分がいる。
ふるさととは生まれ育った場所で、私にふるさとはないと思っていてけれど、お姉ちゃんごめん、私はふるさと、見つけました。