去年の3月。私は袴を着て卒業式に出るはずだった。

しかし、その式典は新型コロナウイルスの感染拡大を懸念して中止になった。卒業証書授与だけでも、学科コースごとに行けないかという話も検討されていたが、やはり叶わず、郵送で送られてきた。

卒業式や謝恩式で着ようと思っていた服は、コロナによって台無しに

卒業アルバム、卒業証書、成績表、記念品。紙切れ1枚にパソコンで打ち出された「ご卒業おめでとうございます」の文字。涙さえ出せなくて、虚無感で神経が灰になる気分だ。

謝恩式で着ようと少し高めの、7,000円くらいする肩の部分がフリルになったパステルカラーの紫色トップス。お店に入った瞬間、これだと思って買っておいた。ついに着る機会が失われた。普段着で着る機会はあるだろうか。

社会人になって、スカートを着ることは減っている。年齢的にも素脚を出すのは気が引けて、Tシャツに逃げているのが現実だ。ラックに掛けてあるトップスを見る度に溜め息をついてしまう。

せっかく目的があった買い物をしたのに。全て未知のウイルスに台無しにされた。

今まで洋服を買う時は、年明けかセールの時。値段や洗濯表示を見てから決めている。レース生地がある袖のところ、アイロンを掛けてもシワが戻るところ、汗を吸わないからシミになってしまうところ。私が可愛いと目に留まるのは、みんな曲者づくしだ。

5,000円以上する洋服は、まず買った試しがない。買う理由も同時に見つからなかった。自分の持っている服の特徴を考えて、自宅で洗濯できて通気性のある、着回しアイテムが理想だったからだ。

少し黄ばんできたら、新しいものを揃える。けれど、いつも似たような色に偏るから、「同じのばっかりね」と母親に笑われた。服のセンスがなくて、アクセサリーを普段から付けない人に見下されたくなかった。

「着るはずだった1着」だとしても、深い思いが一生残るのが服

こうやって変なプライドが投資を燃やすことも多いので、洋服を好きなだけ買う時もある。年明けは特に多い。

私の身長と体型に合わないのは、私自身が世間一般的な女の子と違いすぎるからだと思う。もっと小柄で細く生まれていれば、と何度も引っかかる。ハイヒールもパンプスも、ブーツも私が履いたら巨人だと笑われる。

それならせめて、思い出の1着くらいあってもいいじゃないか。たとえ、「着るはずだった1着」だとしても。深い思い入れが一生残るのだから。

今着ている洋服にTシャツが多いのは、袴を着れなかったという未練があるからだと思う。だから、1番遠い服装をして考えないようにしている。

いつか、あのトップスを着られる日が来れば嬉しいけれど、しばらくは叶いそうもない。思い切ったお洒落よりも優先するべきことが出来たのだから。

1日も早い新型コロナウイルスの終息があって、その後にやっと袴を着られなかった自分を慰めるのが順序ではないか。自分の事よりも、周りの状況について深く向き合っていきたい。

袴も謝恩式の1着もお蔵入りしてしまったけれど、一生残る思い出に

私の思い出の1着。洋服を纏うのはメイクも含めて考えている。思い出になるメイクまで謝恩式のために考えていた。記念撮影もするし、友達と何人かで写真を撮ることも踏まえて、少し華やかなメイクにしたいと思っていた。

洋服を彩ってくれるのがメイクだから。特別な時にしか付けない赤いリップ、大学祝いで頂いた少し高めのリップグロス、アイシャドウは外側から濃い色をのせて逆グラデーションメイクにする。マスカラとアイラインとチークも忘れない。

本当に全て計画通りだった。イヤリングは銀色の蝶が点々と付いた大きめのものを付けたい。できれば香水も、付けたかった。

袴は着れず、謝恩式で着るはずだった1着もお蔵入りしてしまったけれど、私にとって一生残る思い出の1着になった。メイクやコーデを考えた時間も含めて楽しんでいた。その楽しんだ時間こそ、大事に心の中にしまっておきたい。

いつかまた、機会があったら、その時に叶えたいと私は強く願う。