ずっと、自分は何色なのか分からなかった。
どんな色でもいいから、きれいな色をまといたかった。雨上がり、よく晴れた日に水たまりが空を映して輝くような、そんな些細で、だけどちゃんと何かしらの色を抱いて生きる。アイデンティティを確かめたい――今という時代を生きながら、私はそう思っていた。

私が好きなのは男?女?どちらでもない人?あいまいな感情が積もる

3年前、近所の100円均一ショップで働く女の人のことが気になっているというエッセイを書いた。
女性のことが恋愛的な意味で気になる私の性自認は女性だ。
けれど、恋をする対象が定まらない。女性だけでなく、男性に対して恋愛感情に似たものを抱くときもあった。ゆえに、自分が好きになり、恋愛に発展する人たちのことが分からなかった。

私が好きなのは男?女?どちらでもない人?あいまいな感情ばかりが積もる。
私は本当に「女」なのだろうか。好きになる人の性別は決まっていなければいけないのだろうか。
世間体に身を置きながら悩んでいるうちに、あっという間に30代も目前になり、私は次第に焦りはじめた。その時々によって見え方や受け取り方が変わってくる自分を、「何色かにならなくてはならない」というある種の定義に当てはめようと執着している間に、結局いちども恋をしないまますっかり歳を重ねてしまっていた。

鏡を見てみる。胸にはふくらみがあり、そっと触れてみる。
このふくらみにはきっと、意味がある。「女」という意味の、ひとつの色。なら、心は?ときどき、私は自分が男らしくなっていると感じることがある。
女の人をかわいいと思う胸のこそばゆさを覚えたとき――、でも、「女性」を「かわいい」と思えば「男性」だということを、そんな男女の区切りを、私はいったいどこで決めつけているのだろう――。

LGBTQ+の「Q」の意味を知り、生きることが楽になった

大人になってから今まで、疑問符が消えた日はなかった。世界に対する疑問。日常に対する疑問。そして、恋に対するやわらかくもしこりのように残り続けるクエスチョンマーク。私はそれを胸のあたりでじっと耐えるように抱き続けながら生きてきた。

けれどもふと最近、雲の間から晴れ間がさしたような出来事があった。
それは性的少数者を指すLGBTQ+という言葉の「Q」の部分、クエスチョニングという単語について、とある映画を観て初めて向き合った時のことだった。
自分の性的指向が分からない。好きになる相手が定かではない。クエスチョニングとは、セクシュアリティに関して懐疑的であることをさす言葉だ。私はその意味を知り、これは自分のことだ、と気づいたのだった。

それから、劇的に生きることが楽になった。クエスチョニングは、私が「何色でもない」ことを肯定し、受け止めてくれる、それこそ親しく恋人のような間柄に感じる温もりをもった言葉だった。
「何色になれなくてもいい、たくさんの色が交ざって、決してきれいな色でなくてもいい。それがあなたなのだから」と、この先本当に自分が心から愛せる人と出会うことができるのかと焦っていた私を優しく抱きとめてくれた。
そうして、私は「何色でもない」つまり「何色にだってなれる」自分のことを初めて愛おしく思えるようになったのだった。

LGBTQ+が掲げるシンボルが虹の理由が、今ならわかる

LGBTQ+が掲げる虹というシンボル。ずっと「なぜ虹なのだろう」とぼんやり思っていた。今ならわかる。虹はどこにも同じ色がない。青と紫が等しくまじったところ、オレンジがひとさじまざった黄色。今を生きる人たちひとりひとり、みんな違うように、私という人間もオンリーワンなのだ。
私がする恋も、世界にたったひとつ。そう思うと勇気に満ちみちて、限りなく自由で美しい「私だけの色」を、もっと見つめてみたくなった。

鮮やかな色でなくてもそこに美しさを見つけるまなざしを、今、胸の奥に秘めている。それだけで、見違えるようにすてきな人生になったと思う。

虹色、じぶん。私という雨上がりの虹を見上げてくれる人と、いつか出会って恋をしてみたい。