「みんな忘れてしまいがちなんだけど、この世界って、本当はとてもうつくしいんだ」
深夜、電話でそう言った人がいた。
「ええ、そうですね」
と私は答えた。本当にそう思ったから。
うつくしいこの世界はおそろしく、さみしい時間はしあわせだ。

突然寂しさを感じる夜は、案外心地いい。明るい絶望とでも言おうか

初秋の夜は、少し寒い。
私はベッドに寝転び、羽根の布団をかぶって、窓の外に広がる紺碧の夜空を眺めていた。
日付けの変わる少し前、明日になる直前の時間は暗く、静かな空で、月と星が皓々と輝いている。そのやわらかな光を見ると、「ひとりだ」と思う。ひとりきりだ。とてもさみしい。

そして、私は布団を身体に巻き付ける。目を閉じて、「しあわせだ」と思う。このひとりきりでさみしくしあわせな、夜の時間がずっと続けばいいのに。朝が来なければいいのに。
こんなふうに、たまに突然わけもわからず、絶望的なまでのさみしさを感じる夜がある。世界がおそろしくなるときがある。そして、その状態が、案外心地よくもある。明るい絶望とでもいうのだろうか。その日は、そんな気分の夜だった。

そのとき、ベッドサイドに置いたスマートフォンから着信音が流れだした。彼だった。
一呼吸おいて、通話ボタンを押す。また一呼吸あって、彼の声がした。
「……えっと、こんばんは。今日もおつかれさま。ていうか起きてた?」
声を聞いた瞬間、「ひとりじゃない」と安心した。

でも、
「こんばんは、おつかれ様です。起きてましたよ」
と答えると同時に、孤独が深まった。
江國香織さんの短篇「ねぎを刻む」にもあるように、「誰かと話せば話すだけ孤独になる」夜である。そしてのちに、ずっと忘れられない夜にもなった。忘れたくない。たとえ自分の名前すら忘れてしまっても。

彼の問いに悩み、寂しさが伝わらないように「空を見ていた」と答えた

挨拶を交わしたあと、先程までは何をしていたのか聞かれたので、少し考えてから、
「ベッドに寝転んで空を見ていました。とてもきれいな星月夜で――あなたは何を?」
と返した。つとめて明るく軽やかな口調で。
間違っても、孤独や寂しさを感じていたということは言いたくなかった。元気だと思ってほしかった。さみしさが彼に伝わったら、もっと孤独が深まるような気がしたから。そして、心配をかけることもしたくなかったから。

彼は、
「僕はとくに何もしてなかったけど、考えてたことはある」
と言った。
「真夜中は希望の時間で、夜明けは絶望の時間帯だと思うんだ」
希望の時間と絶望の時間。
「このひとちょっと自分と似たようなこと考えてるな」と思いつつ、その言葉の真意を考えながら、
「そのこころは」
と相槌(?)を打って続きを促す。
 
「僕はなんだか夜中の方が頭が冴えて、色んなアイデアが浮かぶんだ。それで色々創作をするんだけど、朝になったらそれが途方もなく無価値でしょうもない代物に思えることも多くって。――だから、僕は、夜には希望に満ちあふれてるんだけど、朝にはよく絶望してる」

わかる気がした。でも、答える言葉に迷って黙っていると、また彼が口を開いた。
「今電話したのはね、あなたも同じように、希望や絶望に振り回されていないかなって思ったからなんだ。もちろん、悪い意味でなく」

「どうか私と一緒に生きて」と間髪入れずに答えた。感じる最上の幸せ

やわらかな声。彼の声が、好きなのだと気付いた。彼の話し方が、とても好きなのだと気付いた。彼自身が、好きで好きで仕方ないのだと気付いた。
「ええ、わかりますよ。というか、逆によくわかりましたね。私、たしかに絶望してました。世界がとてもおそろしいものに思えて。今、電話をいただくまで。でも、明るい絶望です。しあわせなさみしさ」
捲し立てるように早口で答える。

どこか矛盾してポエミーでクレイジーなことを言ってしまったけれど、彼は笑いながら、世にも素敵な返事をくれた。ゆっくりと優しくて聞きやすい、世界でいちばん大好きな声色と口調で。

「うん、わかるよ。……だからね、希望に満ち溢れていても絶望していても、明るくてもさみしくても一緒にいよう。みんな忘れてしまいがちなんだけど、この世界って、本当はとてもうつくしいんだ。次の瞬間、うれしいかかなしいか、希望を持てているか絶望に押しつぶされそうになっているか、まったくわからないけれど、わからないなりに一緒にいようよ、生きていこうよ」

「うん、すごくそうする。どうか私と一緒に生きて」
普段使っている敬語も忘れて、間髪入れずに答える。
このひとしかいない、すべてを捨ててでもそばにいたい。そう思うひとから、どんなときでも一緒に生きていこうと言ってもらえたのだ。この世界は、ただおそろしいだけのものではないと教えてもらえたのだ。これは、最上のしあわせだと思う。

おそろしい世界も、見方や考え方を変えれば美しく思えるかもしれない

この夜があったから、私はまだ生き延びられている。
このおそろしく美しい世界で、希望と絶望を味わいながら、今日も、明日も生きていく。そして明後日も、その次の日も。
 
この文章を読んでくれているあなた。
あなたにとって、世界はとてもおそろしいものかもしれない。今夜は、とてもさみしい夜かもしれない。

でも、見方や考え方さえ変えれば、それは美しいものにも希望にあふれたものにも思えるかもしれない。
だからどうか、この夜を越えて、明日の朝も、生きていこうよ。
あなたの明るい絶望に、私の文章が少しでも役に立てますように。あなたがよく眠れますように。