まだ「新型コロナウイルス」という言葉を誰も知らなかった頃、私は都内のシティホテルで正社員として働いていました。
ホテルと言っても、本当に様々な職種の人達が働いています。お客さんから見えるホテルスタッフは、ほんの一部と言えます。見えないところで、たくさんの人達が、あの華やかな空間を支えているのです。

お酒が弱い体質で、知識もほとんどないけど、バーテンが私の業務に

「新型コロナウイルス」という言葉がまだ世の中に知られる前、ホテル業界は毎日活気付いていました。オリンピックを数年後に控えていたこともあり、着々とお客様を受け入れる準備が進められていました。「オリンピックに利用したいっていうお客様から問い合わせがあった」という会話も、増えてきた頃でした。
私は、ホテルのロビーラウンジでウェイトレスとして忙しく働いていました。入社してすぐに配属されたのが、ホテルのロビーラウンジでした。
昼はカフェ、夜はバーとして営業しているようなお店でした。夜23時ごろまで営業していたので、正社員として働いている私には、当然遅番勤務も課せられました。私は、昔から朝型人間で、本当は早番が好きなのですが、正社員なのでそんなわがままは許されませんでした。上司や先輩は怖いですし。なので、半分仕方なく遅番勤務をこなしていました。
入社2年目の秋頃、私の勤務は遅番か通し勤務(朝10時から夜23時まで)がほとんどのシフトになりました。理由は、私に「バーテンダー業務」をみっちりと覚えさせるためでした。
バーカウンター業務は正社員しかやってはいけないため、私も当然やらなければなりませんでした。私は、体質的にお酒が弱いこともあり、ほとんどお酒の知識はありませんでした。
なので、仕事の空き時間や休憩時間、公休日などに勉強していました。時には、他のホテルのラウンジに足を運び、自腹でカクテルを飲むこともありました。

バーテンダーをこなせるようになっても、時には悔しくて隅で泣いた

でも、私はずっとバーテンダー業務が嫌いでした。カクテル作りの練習をしないと先輩や上司から嫌味を言われたり、作るのにちょっと手間取っただけで怒られたり。もうバーカウンターに入るのが本当に嫌でした。「今日は他の仕事をしてて」と先輩や上司から言われると、心がほっとしました。「今日はやらなくても良いんだー!」と嬉しく思ってました。
そんな中でも、私は割と真面目にカクテル作りの練習と勉強を続け、当初の予定より遅れてしまいましたが、カクテルの実技と筆記試験に合格し、ひとりでバーテンダー業務をこなせるようになりました。それでも、先輩や上司から厳しく色々と言われ、悔しくて、バーカウンターの隅っこで何度も泣きました。
覚えることは山のようにあり、退勤時間は日付が変わる頃になることもしばしばでした。終電に間に合うように、駅まで全力疾走することがよくありました。繁忙期は、終電に間に合わず、タクシーで帰宅することも多かったです。
それでも、仕事と真正面から向き合いたいという気持ちと、元々負けず嫌いな性格のおかげで、毎日がむしゃらに頑張っていたんだと思います。

窓一面の東京の夜景や、終業後の乾杯。喜びを感じるひとときもあった

嫌なことはたくさんあったけれど、思い返せば、喜びを感じるひとときもありました。
「私はホテルのバーテンダーなんだ、しかもこんな東京の真ん中のホテルの」と思うと、ちょっとだけ誇らしい気持ちになりました。壁一面に並んだウイスキーのボトル、綺麗に磨かれ、ずらっと並べられたグラス。そして、間接照明でほど良い暗さになっている店内、窓一面に見える東京の夜景。これらが私の気持ちを鼓舞してくれていたのかもしれません。
また、本当にたまにですが、先輩や上司から「成長したね」や「最近頑張っているね」と言われることがありました。お店のクローズ作業が終わった後に、先輩や上司がバックヤードで、廃棄予定のシャンパンやケーキ、おつまみなどを出してくれて、「お疲れ様」と小さく乾杯したこともありました。
本当なら、私がシャンパンを先輩や上司の分も注ぐべきなのですが、「いいよいいよ」と言って紙コップに注いでくれたこともありました。仕事の終わりにバックヤードで乾杯する時間は、ちょっと立派な社会人になれた気がしました。

連日のハードナイトは私のメンタルをタフにし、人生を少しだけ豊かに

そんなハードナイトを連日過ごしたおかげで、メンタルがちょっとだけタフになれた気がします。未だに、あの頃を超えるハードナイトを経験していません。あの頃、必死で学んだお酒の知識は、日々の生活の中で、ほとんど使うことはなくなりました。
でも、普通のOLでは経験できない仕事をしていたことは、私の人生をちょっとだけ豊かにしてくれたんじゃないかなと思います。あの頃、練習していたカクテルは、お気に入りの一杯となっています。たまに飲みたくなるのは、あの夜を必死で乗り越えてきたからだと思います。
新型コロナが落ち着いたら、東京の夜景が望める場所で、お気に入りのカクテルを飲みたいと思います。