文章を書いたのは数年ぶりだった。
もともと、文章を書くこと自体は嫌いではなかったが、気づけば何年も創作活動から離れていた。
幼少期から小説が好きで、学生になると詩歌にも興味をもった。
学生時代は、ぼんやりと文章に携わる仕事はしたいと思っていた。
ところが、現在のわたしは文章に携わる仕事どころか、字を書く機会すらほとんどない仕事をしている。
だが、どこか心の片隅では文章や詩歌を通して「自分で何かを創りたい」という気持ちは変わらずにあった。
しかし、20代の後半にさしかかってもなお定職に就かず、なんの肩書きもない自分。誰が決めたわけでもないのに、「30歳までにはちゃんとした生き方をしなきゃな」と考え、無駄につらくなっていた。
そして、「早く何かしなければ」という焦る気持ちと「もう無理かも」という諦めの感情が葛藤していた。
エッセイ募集に「やってみるか」と妙に前向きな自分、自ら驚いた
コロナ禍の影響で、休業になることが増え、自宅で何もしない日々が淡々と続いていた。
ある日、目的もなくネットサーフィンしていると、エッセイ募集の広告に目が留まった。募集のテーマや要項を読み、「やってみるか」と妙に前向きな自分がいることに自ら驚いた。
社会人になってから、惰性で日常を消費しているような生き方をしてきた。機会を見つけても何かと理由をつけて、きちんと行動に移さなかった自分がいたのだ。
「何かを創りたい」って口だけじゃない?と自問自答したこともあったし、「書かないの?」と友人や恋人から言われたこともあった。その度に挑戦しようと思うが、なかなか「書けない」自分が嫌になっていたのだ。
わたしにとって、「文章を書く」ということはリハビリが必要だと思うようになっていた。
漢字を書く機会が減ると忘れてしまうように、創作もしなくなればその感覚は鈍りできなくなるものだとわたしは感じていたのだ。
「書く」と決め、自分のなかでテーマを決めてからは不思議と筆が進んだ。
不自然な言い回しかもしれないなど思うことはあったが、とりあえず書き終えることがゴールとばかりに。考え出すと堂々巡りになりがちな自分の性格を鑑みて、勢いでなんとか投稿まで終えた。
採用通知で湧き上がる、自分の表現を人にみてもらえる懐かしい感覚
投稿してから数日後、「採用される」とLINEがきた。
携帯を持っていた手が震えた気がした。それくらいの驚きと、喜びを感じた。「ああ、やってよかった」と心から思った。
そしてなにより懐かしい感覚だった、こうして自分の創ったものを人にみてもらえるというのは。不思議と「わたしなんかが書いた文章なんて」という気持ちは起きなかった。
文章や詩歌や絵もそうだが、自分を表現するものは必ず自分にしか創られないものだと思い出した。やっぱり、わたしにとって、言葉というものは大切なものだった。
衝動でエッセイを書いたあの瞬間のわたしに感謝するしかない。
ようやく、心の片隅にあった「自分で何かを創りたい」という気持ちに目を向けられるようになった気がする。
もしかすると、また自分の感情に目を背けてしまうかもしれない。
だが、わたしのなかの「創りたい」という気持ちはやはり消えないままなのだろう。