かがみよかがみの自分のページを、時々眺めている。
初めて投稿し採用された2020年の11月から、割とたくさんのエッセイを掲載してもらってきた。どのエッセイを見ても、全部のエピソードとそれを書いているときのことを、鮮明に思い出すことが出来る。
日頃考えていることを文章に起こし、こうして綺麗な扉絵をつけてもらって並べて置けることが、とても気に入っている。
狭い世界で生きてきた私にとってはまた一つ新しい世界が出来た感覚
初めは文章を書く練習がしたくて投稿を始めたのだけれども、編集者さんからのフィードバックや、他のかがみすとさんたちとの交流も少し出来てきて、狭い世界で生きてきた私にとってはまた一つ新しい世界が出来た感覚があって嬉しかった。
ずーっとモヤモヤしているけど人に話すほどでもないエピソードや、浮かんでいるけれど整理されていないアイデアは、随分ここで整理されて旅立って行った。おかげで日常で誰かと話す時も、説明するのがとてもやり易くなったのだ。
話し口調やテンポ感を変えてみたり、好きな文筆家さんに真似てみたりすることもあるが、全部「わたしらしい」可愛いエッセイ達だ。
しかしこんなにも「わたしらしい」もので身を固めているというのに、しばし見失うのが「じぶんらしさ」というものである。どうやら私は本来の自分と、他人から見た私のイメージが遠いことが多いらしい。
そのせいでしょっちゅう「わたしは誰?」と疑問が起こる。
他人の持つ自分のイメージなんて、意外と思い込みであることが多い
例えば、このエッセイ「金髪、ピアス、タトゥー…こんなにお洒落なのに、なぜいけないの?」で、『自分の持って生まれた容姿を気に入ってしまった。だから、もうそれをどういじるかでは悩まないけれど、』なんて書いておきながら、その後ド派手なオレンジ色に髪を染め、さらにピアスも開けてしまった。
私的には世紀の大変身だったのに、久しぶりに会った人には、意外にも全く触れられなかったりする。指摘してくる人の方が少なかったくらいだ。
先日久々に大学時代の友人と電話していると、「はいじちゃん、いつも派手髪だもんな~」と言われた。過去にこんなに派手髪にしたことなんて、一度もないのにも関わらずだ。
ピアスに関しても、「え、開いてなかったっけ?」「っていうか、いっぱい開いてる人だと思ってた!」などと言われることばかり。
逆も然りではあるが、他人の持つ自分のイメージなんて、意外と思い込みであることが多い。案外、他人というものはそこまで人の人生について真剣には考えてはいないのだ。ずーっと考えて答えが出ないことで、他人に相談してその場で思いついたアドバイスをもらっても、参考にならないことも多い。それらは、既に自分の中で浮かんで消えて行ったものばかり。もちろん客観的な意見が必要な場合も多いけれど、優先的に尊重するべきものは、結局は自分の気持ちであるように思う。
「じぶんらしさ」に正解も不正解もなく、年齢や環境によっても流動的
髪の毛を赤くして私の憂鬱な気分は随分前向きに変化したし、ピアスを開けても運命が変わるようなこともなく、ただイヤリングをしていたときの痛みからくるストレスが消えた。
服装に関しても、以前このエッセイ「『おしゃれ番長』と服装をいじられることが鬱陶しくなり、無難で地味な服装に」で、コムデギャルソンの服を買ってから、モード系の服にどハマりして、以後は黒い服しか着なくなってしまった。派手な髪にピアス、そして黒い服を着ていると、それはまるで魔女である。しかし何故かそれがとてもしっくりきて、妙に落ち着くのだ。
私はようやく今の「わたしらしさ」というものを、見つけられたような気がした。結局、「じぶんらしさ」に正解も不正解もないのだ。
年齢や環境によっても、それらは常に流動的であるし、客観的に見て「らしく」なかったとしても、自分がしっくりきているのなら、人の意見なんて関係ないはずである。