文章を書くのは好きだった。私が記憶のある中で、初めて書いた文章は「コロンとペコラ」という物語だ。ウサギのコロンとクマのペコラが、一つのリンゴをめぐって揉める話である。よく覚えていないが、最後は大団円だった。
創作好きは止まるところを知らず、中学の夏休みの文章課題(読書感想文や詩歌など、とにかく文章を書くという課題があったのだ)では、三年間創作文を書いた。
人が亡くなったりなんだりする話だったと思う。おぞましい歴史だ。思い出したくもない。

読むことが好きだったエッセイ。書き始めたのは高校に入ってから

エッセイを書き始めたのは、高校に入ってからだ。文章をもっと上手く書きたくて、読むだけで伝わるように人の姿を書いているうちに、自然とエッセイを書き出していた。
昔から、エッセイを読むことも好きだった。小学生の頃のお気に入りは、学校の図書室で借りたさくらももこのエッセイ(絵日記)。中学に入ってからは向田邦子のエッセイを、近所の図書館で読み漁った。高校時代は三浦しをんのエッセイを読み耽り、彼女のサイン会ではラブレターと共に盛大な告白をした。
高校二年生。地元の文学館のエッセイ教室に通った。全部で五回の市民講座。もしかしたらエッセイを書くのが好きな、歳の近い人間に出会えるのでは、と期待をしていた。エッセイ教室は、私の四倍くらい生きたであろう受講生が大半だった。落胆を必死に隠しながら、一番後ろに座った。
素人のエッセイを読んだのは、その時が初めてだった。私の四倍生きた人たちのエッセイは、よく人が亡くなっていた。

教室で最初の作品を酷評されてから、毎回違うエッセイを書いた

私が教室で出した一番目のエッセイは、通学路に咲いている真っ白のアジサイの話だった。私はそのアジサイのことをウェディングドレスを着た花嫁のように思っていた。ある日そこを通ると、アジサイが根本からばっさり切られていて、私は彼女(アジサイのことである)が突然消えてしまったようで、すごく悲しくなった。というような内容を書いた。
毎回、締切までにエッセイを書き、教室の日にそれを一人ずつ批評されるという流れだったが、私はアジサイのエッセイの批評の日に、欠席してしまった。その次の回で、一回目の批評内容を書き記したものを貰ったが、まあひどい書かれようだった。

あまり覚えていないが、幻想的なのはいいが抽象的で分かりづらいだの、もっと具体的に書けだの、情景が浮かばないだの、とにかく褒め言葉の一つもなかった。
なるほど。批評を読み、高校生の私は半笑いでその紙を机に置いた。それじゃあ次は「具体的」なエッセイを書こう。毎回違うエッセイを書いた。まるで実験だ。

「ああ!あの面白いエッセイの人か!」初めて面と向かって褒められた

四回目。「これは面白かった!」と手放しで褒められた。私が高校であったことを「そのまま」書いたものである。締切時間の直前に、慌てて書いたものだ。「何も考えずに書いたものが面白い?」と思った。他の回はもっと、自分の考えを入れて、悩みながら書いていた。
「非常に面白い作品でした。会話文は下手すると単調になりますが、テンポの良い文章でそれを感じさせませんでした」。そうか、私は会話文が得意なのか。その時初めて、自分の得意なことを知った。そして特技は、無意識のうちに出るものなのかもしれない。そう思った。

五回の教室が終わり、先生に「読むだけで、誰がどんな人が分かりますか」と質問をした。
「うーん、大体は想像がつくけど、それ以上はなあ」。「じゃあ、私はどれだと思いますか」と聞くと全く違う人の名前を挙げられ、「佐藤すだれです」と返した。
「ああ!あの面白いエッセイの人か!あれ、本当に面白かったよ。よく出来ていたなあ」。褒められるつもりはなかったので、ひどく赤面した。こうして面と向かって褒められたことは初めてだった。今までの批評は、先生から「作者の誰か」に向かって語られたものだったから。

私は私のために書いている。これからも、感じたことを書くだけ

自分の書いたものに、反応を貰えれば嬉しい。けれど、反応を貰えなくても決して悲しくはない。私は私のために書いているのだから。私は書くのが好きだ。喋るよりも多く、楽しく、朗らかに、自分を表現できる。
現在締切の三分前。間に合うか微妙なラインだ。カップ麺ならお湯を沸かしているうちに経ってしまう時間。
もしこのエッセイが載れば、かがみよかがみに載るのは八回目、いや九回目?いや、そんなのどうだっていい。私は私の感じたことを書くだけだ。これまでも、これからも。