わたしがエッセイを書こうと思ったのは、「何者」かになりたかったからだ。
「何者」って、なに?ってはなしだけれど、とにかく「何者」かにならなければ「終わる」そう思い込んでいた。いや、いまも、思い込んでいる。
初めてのエッセイ投稿は採用されず。文を書くことを否定された気に
わたしは「何者」かにならなければならない。ずっとそう思って生きてきた。
なにならできるのだろう、わたしになにが。ずっとそう思ってきた。20代前半でなにかを成し遂げなければ、「終わる」。
そういう感覚で生きてきたのだ。生きているのだ。
わたしは国語の教員か、作家になりたかった。本を読むことが好きだから。その程度の理由で、ひとに教えるか、もしくは、自分で文章をいちから。書いてみたいと思っていた。
文章。言葉。文字。読む。わたしにはそれしかないから。
だって好きだったから。だって得意だったから。
だからエッセイを書いた。たまたまInstagramの広告に出てきたかがみよかがみで。
けれど、初めてかがみよかがみでエッセイを書いたとき、採用されなかった。その後に書いた「ドウドウ癖」のエッセイ でも書いたけれど、わたしは「女王気取り」な一面がある。だから納得いかなかった。
わたしが唯一得意な「文を書くこと」を、否定された気がした。
腹が立った。世の中が、編集者が、このサイト自体が、間違っていると思った。
「『このわたしの』世界観」が、通用しないわけがない。見る目がない。センスがない。ありえない。本気でそう思った。
けれど、エッセイを書いてみて、書き始めてみて、そしてかがみよかがみに投稿しているひとのエッセイを読んで、わたしはやっぱり井の中の蛙なのだと思った。
わたしのこころの一部をさらけ出す文章が採用。嬉しさと怖さを感じた
わたしの拙い文章など、なんの役にも立たない。わたしは「何者」にもなれやしない。
ほんとうに「終わって」しまう。
どうしよう。
焦った。わたしは「書きたい」「何者」かになりたい。でなければ「終わる」
本谷有希子さんが言っていた、「23歳までに何者かになれなければ『終わる』」。
わたしは、初めてエッセイを投稿したとき、23などとうに超えていた。この理論(というか、考えかた)でいくと、わたしは「終わっている」。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。「終わって」しまう。
わたしはこんなところで「終わる」人間ではない。
だけれどもある日、「ドウドウ癖」のエッセイが採用された。嬉しかった。やっと「認められた」と、思った。
けれど、同時に、怖かった。
「ドウドウ癖」以外にも何度か掲載して頂いた、わたしのこころの一部をさらけ出す文章を書くことが、とても怖かった。
だってわたしのこころのなかの「文章」は必ずだれかを傷つける。わたしは、それをこの世に放つのであれば、一生、その荷を背負って生きなければならないのだと、そう思った。
そして、この先もわたしは書けるのか、これで終わりなんじゃない?自分に、そう言われている気がして。
怖かった。いまでも怖い。だって結局、わたしは「何者」でもないし。
だけどもう、書かずには生きていけないと思う。どのようなカタチであれ、わたしは書き続けたいとおもう。
一度伸ばした手を戻すことはできないから。だれか、握ってください
相変わらずわたしは「何者」でもない。誰かに必ず必要とされる人間ではない。たしか村上春樹さんがどこかで書いていた、のか、言っていたのか、記憶は曖昧だけれど、「作家はつぶしがきかない」
でも、エッセイを書くことは別にわたしじゃなくてもできる。「わたし」がエッセイは書けなくても、べつに「わたしのエッセイ」が求められているわけではないから。
いてもいなくても、いい。
宙ぶらりんな存在。空中ブランコ。空中浮遊。クラゲのように漂うわたしはどこに着地すればいいのだろう。どこを目指せばいいのだろう。どこでなら「何者」かになれるのだろう。
「終わり」たくない。でも時間がない。かがみよかがみで書ける年齢も、もう少ししかない。
だからもう、書くしかないのだ。
ひたすらに書いて、書いて、書いて、書いて、もう書けなくなったら、それは最期のときだ。
消費できる人生なんて、有限なのだから。
わたしの拙い文章を読んでくれてありがとう。
どこかでだれかが読んでくれていますように。おねがい。あなたのなかでわたしが「何者」かであれば、それでいい。
自分で持て余すほどの承認欲求を、満たして欲しい。
エッセイを書く前のわたしにはもう戻れない。 時間は不可逆だ。わたしは手を伸ばしてしまった。
だれか、握ってください。わたしの文章を、手を、だれか。
ありがとう。