「ほたてちゃんって、男女差別してる?」
 小学5年生の夏だった。下校のチャイムが鳴り響くなか、下駄箱の前で突然、同級生のサナちゃんに問いかけられた。

「……うん。そうだね、してると思うな」
少し悩みながらも、私は正直に答えた。

「男女差別をしている」が「“ぶりっこ”なんだ。サイテー!」に

だって、男子のことがあまり好きじゃなかったから。
外見を罵ったり、下品で乱暴で、“たてまえ”もなにもないまっさらな悪口を平気な顔して放つ彼らが怖かった。女子とは全然違う、言葉が通じない異星人のように思っていた。
異星人と話すときの自分を思い出してみたら、やっぱり、少し声を荒げて威嚇していることが多い。
だから、私は「男女差別をしている(女子相手の方が優しく接している)」という認識だったのだ。

問いかけの意図を深く考えずに応えた私は、その後放たれたサナちゃんの言葉にひどく驚いたのを覚えている。

「えー!!ほたてちゃんって“ぶりっこ”なんだ。サイテー!」

彼女はそう大きな声で放つと、近くにいる他の女の子にすぐさま“ほたてちゃんは男女差別をするぶりっこ”であると伝えにいった。
私はすぐに「誤解だよ!」と追いかけたけれど、私の声など、誰も聞いていなかった。

「相手が何を考えているのか」を、常に意識するようになった

「男女差別をしているか」の解が“ぶりっこ”と認識されたこの日から、他人との無駄な対立を避けるために、私は「相手が何を考えているのか」を常に意識するようになった。

同じ“真っ赤なりんご”を見て、わたしが「美味しそう」と思っても、他の誰かは「気持ち悪い」と思うかもしれない。
考え方はひとの数ほどあって、誰もが同じ感想をもつわけじゃない。そんなある種の“あたりまえ”に、早めに気が付くことが出来たのは、ラッキーだったと思う。

“あの子なら、こうしてほしいんじゃないか”
そう想像しながら、注意深く他者に接していると、自然と周囲の評価があがっていくのがわかった。相手に気遣い、同調し、コミュニケーションを育むのだから“あたりまえ”だったのだろう。そこに“敬意”が欠けていても、うまく“まわって”いたのだ。

「自分はどんな人間なのか」。そんな自問をするようになったのは大学生になった頃。

ランダムに振り分けられた10人前後のゼミでは、毎回お題が出されて各自が創作してきたものを、全員で批評していた。それまで同調し、寄り添うことばかりだった私にとって、「批評する」というのはとても難しいことだったが、同級生はそれを易々とこなしていたことに、ひどく驚いた。ゼミ生でなくとも、構内の至る処で「僕はこう思う」「私はああでないといけないと思う」など、自ら意思をもち、意見を交わしている風景が日常にある。

こんなに自由に、自分の意志を伝えるひとが同級生だなんて、なんて自分は遅れているんだろう。“誰かが求めるわたし”を無自覚に演じてきた代償は大きくて、自分がからっぽだったことにやっと気が付いた。「あ、やばい。わたしって何もないんだ」

「私はこう思う」が徐々にだけど、言えるようになった

行動し続けることで、今までないがしろにしていた「自分の意志」をもつことが出来るかもと考え、学生時代の大部分をサークル活動やインターンなどの課外活動に勤しんだ。

結果として、これは結構自分にあっていたと思う。

今まで自分には向いていないと思って避けていたリーダーポジションを担ったり、友人同士で創作活動を続けるうちに、「この人はこう思うのか」のあとに、「私はこう思う」が徐々にだけど、言えるようになった。やんわりでも口に出していくことで、相手もまた「面白い」と思ってくれることがわかった。それがとにかく嬉しくて、自信につながったのだと思う。

結局、私は他人が私といて「たのしい」とか「安心」とか、ポジティブな気持ちになってくれることが何よりも喜びであることが、最近やっとわかってきた。

同じ“真っ赤なりんご”を見て、わたしが「美味しそう」と思っても、他の誰かは「気持ち悪い」と思うかもしれない。
けれど、言葉を胸の内に抱きかかえながら、ただただ「そうだね」と同調していた“わたし”はもういない。(もちろん、言わない利口さもあるからそこは臨機応変にしたいところ)

あなたはあなた、わたしはわたし。
だれもが同じ考えではないから、だれかといる日々って、すごくめんどうで、めちゃくちゃ愛おしいんだろうな。