25歳の私には、『推し』という言葉が生まれるよりも前からずっと応援している推しがいる。
約15年前、出会った当時小学生だった私にとって彼は「遠くで輝くアイドル」以外の何者でもなかった。
月イチで発売されるアイドル誌や、数カ月に1度発売されるCDがとても楽しみだった。
本当に純粋にただ作品や活躍を楽しんで、一緒に喜んで。
「大人になったらアイドルに興味はなくなる」
周りにも散々言われたし、自分自身もそう思っていた。
でも全くそんな気配はない。
大人になった今も推しはずっと私の心の中にいて、なくてはならない存在だ。
だけど、いつからだろう。
こんな劣等感に苛まれるようになったのは。
比べてもどうしようもないのに、推しと自分を比べてしまう…
私は今、ずっと憧れていた職業に就いて働いている。
だけど毎日めちゃくちゃ幸せか、楽しいかと聞かれると困ってしまう。
やりたいことをやれるのは、毎日の長い労働時間のほんの一時で、理不尽な目に合うことや、口ばかりの同僚や上司に腹が立つ時間の方が多い。
私には推しのように、常に一緒に戦ってくれる「メンバー」はいない。
私が生きているだけで、今日食べたものを報告しただけで喜んでくれるファンもいない。
1度一緒に仕事をしただけで、各所で自分を褒め称えて評価してくれる同業者もいない。
傍から見たら「当たり前」なその事実に、どうしても虚しくなり涙してしまう日が増えた。
比べてもどうしようもない、もっと言うなら比べるレベルにもないものと自分を比べては勝手に悲しくなってしまう。
推しはこんなに輝いているのに、自分はなんなんだろう……。
自分が働くようになって、仕事での苦労や歯がゆさが身に染みるようになった。
だけど、そんな「仕事」でいつも笑顔で好きなことをしている推しが、とてもまぶしく感じる。
この行き場のないモヤモヤの原因は?推しを見るたびに感じる無力感
そんな推しを見る度、彼程忙しくもなく、何かに特別努力をしているわけでもないそんな自分が頑張れていないように感じてしまう。
新しい曲が公開になる度、新しいドラマや映画が決まる度、新しい仕事にチャレンジする報告をもらう度、私の知らないところで努力し、着実にキャリアを積む推しの活躍を自分と比べて、純粋に趣味としては楽しめなくなってしまった自分がイヤになる。
この行き場のないモヤモヤの原因は何なのだろう。
私も私の世界で頑張っていて、推しは今日も輝いている紛れもない事実
だけど間違いなく、私にとって推しの存在は生きがいだ。
通勤の時に聴く歌声に、街中で目に留まる広告に、イヤなことがあった日に届いた新しい仕事の報告に、届けられる新しい作品に、なによりその笑顔に。
何度元気づけられ笑顔にしてもらったか、温かい気持ちをもらったかわからない。
最近気づいた、私はどうやら自分に厳しすぎるらしい。
「素敵な人を素敵と思える心を持ったあなたも、素敵なんだよ」
ネットでこんな言葉を見かけた。
ハッとした。本当にそうだと思う。
私も私の世界で頑張っている。推しは今日も輝いている。
それは紛れもない事実なのだから、推しを素敵と思える この自分のことも好きになりたい。