推しと手を握り合うチャンスが巡ってきた。
それは2020年初頭、COVID-19は影こそ隣国にちらついていたが、まだ本格的な日本上陸は果たしておらず、正月に帰省して家族と過ごすこと、友人と居酒屋で鍋をつつき合うこと、お芝居やお笑いの劇場に行って屈託なく笑うこと、それらすべてが疑いようもない楽しみとして当たり前に存在している頃だった。

3密を避けるべしとかの発想ももちろんない訳で(今となっては夢のようだ)、だから舞台俳優とそのファンたちがひとところに集い、トークライブの後、特典として握手&チェキ会を催すというイベントも、当然あり得た訳である。

初めて舞台を見たその日から虜になった彼と、握手ができるイベントへ

わたしの「推し」ーー彼は舞台俳優で、2019年春のとある舞台で出会った。最低限の前情報しか仕入れず、いわばノーガード状態で観劇に臨んだわたしは、彼からものの見事に強烈な鼻ストレートを食らい、一発K.O.された。
整った容姿、通りの良い声、何より一級品の演技。まさに、わたしの人生に彗星のごとく現れた天才だった。あの日からわたしは彼の虜であり、これからも応援し続けるつもりでいる。ずっと憧れの人だろう。

そんな推しと対面して、少しながら言葉を交わして、握手ができるイベントがある?
2019年冬、SNS上でその情報を知った時、わたしは参加を即断できなかった。一瞬、「会いたくない」という感情が胸をよぎった。夢が壊れるかもしれないのが怖かった。
わたしの中で彼は颯爽と現れたヒーローで、板の上でスポットライトを浴びるアイドルで、異空間に連れて行ってくれる奇跡の人。それくらいふわふわした、現実味のない存在だった。

そんな相手と自分が、握手という軽い形でも、関わりを持つなんて。ちょっと想像がつかない。そんなパラレルワールドが交差してしまうようなこと、あっても良いのだろうか。憧れは憧れのままにしておこうか。
迷ったけれど、結局「絶対に一生の思い出になる」という心の声が打ち勝った。
チケット争奪戦を無事くぐり抜けて、わたしは握手会つきトークイベントに参加することになった。

楽しいトークライブの余韻を忘れ、恐怖に似た緊張感がやってきた

当日、期待と高揚感と、恐怖に似た緊張を抱えていたのを覚えている。
場所は小さめのライブハウス。トークライブ終了後、握手会は舞台上に簡易的な衝立が立てられ、その奥でとり行なわれた。一人当たりの時間はおそらく数十秒から1分程度だっただろうか。

衝立に続く長い列で順番待ちをしながら、わたしは楽しかったはずのトークライブの余韻をほとんど忘れていた。
次々と衝立の奥に吸い込まれていくお洒落で美しい女性たち。全員、王子様に会いに行くヒロインのように可愛らしく、キラキラして見えた。知り合い同士で連れ立って来ている人も多かったようで、一人で参加していたわたしは尚更心細かった。

順番が回ってくるまであと一人になった。一つ前に並んでいた女性が衝立ての向こうに消えていく。かすかに聞こえる明るい男女の声、やりとりの内容まではわからないけれど、社交的に会話が弾んでいる感じ。

順番が近づくにつれて増える不安。とうとう、推しのいる衝立の内側へ

ああ、推しが楽しげに対応している。この人はちゃんと推しを楽しませる会話ができてる。
わたしみたいな奴が、こんなにちゃんと振る舞えるだろうか?
だいたい振る舞い以前に、場に見合った格好ができていないと思われたらどうしよう?
柄にもなくスカートとか履いてきたけど、似合ってないかも?

化粧も変じゃないかな?
ヘアアレンジしてくるべきだった?
緊張で汗かいてない?
脚、震えてない?
え、これで推しに会って大丈夫?
動悸がピークに達しようとする時、さっき入っていった女性が晴れやかに「ありがとうございました!」と言いながら衝立から出てきた。笑顔が眩しい。行くしかない。わたしはとうとう推しのいる衝立ての内側へと進んだ。

たぶん、笑えていなかったと思う。がちがちで中に入ってきたわたしに、推しは自分から(営業用スマイルだけど)温かく微笑み、すっと手を差し伸べてくれた。
シミュレーションでははきはき話せているはずだったのに、実際に出たのは蚊の鳴くような細い声。「応援してます」とだけなんとか発声し、自分も手を伸ばして、差し出された手を握り返した。

温かく、大きい男性の手。推しの手は生々しく、生きている証だった

あ。
推しの手に触れた瞬間に感じたこと。
硬い。
温かい。
皮が分厚い。
生の情報が流れ込んでくる。

豆すらありそうなほど手のひらの皮が分厚い。考えてみたらそうだろう、推しは2.5次元作品や時代劇で刀や長物を持つことも多い。一つの作品につき稽古期間が数週間にわたるのが演劇では一般的だ。つい最近の出演作も殺陣のある時代劇だった。出演作が増えるごとに手の皮は厚くたくましくなるだろう。作品ごとに色々な小道具を握ってきたその手。
そして温かく、大きい。生々しい男性の手。

これは力仕事をする男性の手ではないか。
演劇は肉体表現だから、それを生業にしている人は肉体労働者だと言ってもいい。
女性の手を包み込めるくらいの大きさ。硬い皮の内側にはみっちり肉が詰まっている。
推しの手は生々しくて、少し荒れていて、生活者で、はっきりと生きていた。

あの日以来、推しはわたしの中で「人間」として認識されるように…

わたしは感動して、動揺した。この人もわたしと同じ時代に生きて、働いて、疲れたり回復したりする、ひとりの年上の男性なんだ。そんな当たり前の事実を再発見した。
緊張して縮こまっている場合ではない。
最低限の人間の振る舞いをしなければ。
社会常識を振り絞って、その後二言三言会話のラリーをなんとか打ち返しながら、わたしは血の巡る推しの手の温かさを感じていた。

その日以来、推しはわたしの中でちゃんとした「人間」として認識されるようになった。
舞台の世界観にマッチする人物像を体現するアバターでもなく、ファンから勝手に崇拝される偶像でもなく、画面越しにだけ存在するキャラクターでもない。応援する側のわたしたちと同じ人間だ。

そして、人間が同じ人間の心を動かすことこそ、尚更凄くて、尊敬すべきことなんじゃないか。
推しは神様ではなくなったけれど、憧れの人であることに変わりはない。同じ時代に生きる人間として、これからも追いかけ続けようと思っている。