拝啓

鈴虫の音が届き始め木々の葉も移ろい始めるこの頃。
懐かしのあなたに筆を執りたいと思います。

ズルいあなたに「純愛」の感情を抱いていた私は、あなたが欲しかった

大人なあなたが憧れでした。
紫煙を隠すように振られた香水の香りが。
ズルいあなたが好きでした。
言葉を濁したあとは、決まって手慣れた手付きで、私の頭を撫でるのです。
特別をくれるあなたが特別でした。
隠れて重ねた唇と、後ろに乗せてくれたあのバイク。

何でも知っている顔をしたあなたでも、私が纏う香りの意味も、結い上げた髪をおろした理由も、塗り直さなかった紅のワケも、あなたは知らないでしょう。
いや、知っていたのでしょうか。
バレていたのでしょう。

だって、あなたはズルい大人ですから。
“純愛”と言えばいいのでしょうか。
別に恋人が欲しかったわけではありません。
あなたが好きだったのです。

“あなた”だから欲しかったのです。
欲しかったと言うと物みたい。
この考え方がダメだったのでしょうか。

私を変えたあなたと会わなくなり、好きと言ってくれた人と付き合った

誰に対しても態度を変えないあなたが、私の前だと甘くなるのです。
そりゃ、もう、周りの人に言われるくらいに。
私を自意識過剰にしたのは、あなたです。
あなたに褒めてもらいたくて、苦手なことも、面倒なことにも挑戦しました。
ご褒美とくれた有名なコアラのお菓子と、それに書かれた少しのメッセージ。
今でもお守りだなんて言えません。
教えるつもりもありません。
だって、私もズルい大人になったのだから。
私をズルい大人にしたのも、あなたです。

年を重ねて、あなたと会わなくなって、私もいろいろな経験をしました。
純愛しか知らなかった私は、泡沫な者となりました。
好きと言ってくれた人と付き合いました。

とても優しい人です。
炭火の煙にむせてしまうような人です。
そばにいるといつもお花のような柔軟剤の香りがする人です。
いつでも真っ直ぐに気持ちを伝えてくれるのです。
あなたを想って落とした空知らぬ雨も、彼は何も言わず、その胸に染み込ませてくれました。
あなたとは似ても似つかぬ、不器用な手付きと共に。
刺激や秘密がなくても、ないからこそ、安心できる心地の良い人でした。

安心できて心地のいい彼に、私は「愛」を口にすることができなかった

それでも、私は愛を口にすることができませんでした。
怖かったのです。
愛を伝えることで、彼が言葉を濁らせてしまうのではないかと、信じることが出来なくなっていたのです。

唇を重ねることに、特別を感じなくなりました。
大人になると唇以上のものを重ねる機会があるものです。
あのとき感じた胸の苦しさは、いつの間にか忘れてしまったようです。
予習も大事ですが、復習の方が大切なのかもしれません。
初心を忘れてはいけませんね。
でも彼は、髪や手、おでこ、頬、唇以外にもたくさん、たくさん、優しく口づけをしてくれました。

お酒も飲みました。
あなたが付けていたワインレッドのネクタイとよく似た色のお酒を。
渋くて私は苦手でした。
彼は笑って甘いお酒をくれました。
二日酔いは未だに慣れません。
頭痛を言い訳に、求める手を間違えてしまいそうだったのです。

あなたから学ぶべき「気持ち」ではなくても、恋を知ることができた

一年、二年と、大人になるたびに、ズルいあなたを思い出しました。
でも、同時に、心恋が消えていくのがわかりました。
大人になるというのは、こういうことなのでしょうか。
唇を重ねたあの夜の、あなたの年齢になりそうです。
大人だと思っていたあなたに失望しました。
隠していたのは、紫煙だけではなかったから。
ズルいあなたが嫌いになりました。
あの手慣れた手付きは、私じゃない人で身につけたことだったから。
特別をくれたあなたは悪い人でした。

あなたが教えてくれたあの気持ちは、あなたから学ぶべきものではなかったのです。
でも、あの気持ちがあったから、恋を知ることができました。
愛を学ぶきっかけとなりました。
無茶苦茶とも思える教え方でも、学ぶべき点を知れたのは、きっと、あなたなりの優しさがあったからでしょう。
あの頃の恋蛍は光絶えましたが、新たなる光を連れて参りました。
穏やかな陽だまりのような光です。

あなたとのことも、思い出すのは今日で最後だと紙に綴ってはみたものの、行く宛などない紙切れです。
誰の目にも晒さぬうちに、灰となってもらいましょう。
それでは、今後は人生の先輩として良き手本となっていただければ幸いです。
末筆ながら、ご自愛のほどお祈り申し上げます。

敬具

でもね、あの日のことは努努お忘れなきよう。
ね、先生。