8月までの私は、正直だめだめだった。
どれくらいだめだめだったかというと、もし誰かに私の内側を突然ぱっと覗かれたら、卒倒しちゃうくらいには。

憧れの大学生になれたのに人と比べては落ち込み、夜が怖かった

私は今年、大学一年生になった。気の遠くなるような受験期を乗り越えて、喉から手が出るほどほしかった「大学生」という肩書を晴れて背負うことができた。
ああ、「大学生」という響き!
受験期の私にはどれだけ魅力的で大人な響きだったか!
実際の私は、すぐには憧れていた「大学生」の形を模倣することはできなかった。自分の大学のあの子とも、他の大学のあの子とも、自分自身とか自分の生活と比べては落ち込んで、なんとなく自分の生活から逃げた。楽しかった高校時代と比べて、こんな気持ちになっているの私だけかなあと悲しくなった。私以外のみんなが、数か月前までは同じ制服を着ていたはずなのに、その制服を軽やかに脱ぎ捨てて「大学生」を乗りこなしている気がした。
毎日毎日、夜が怖かった。自分だけが取り残された気がして。人のSNSを見ては、胸をざわざわさせていた。
そんなある夜、高校時代の友人からふと電話がかかってきた。今となってはなんで電話をすることになったか、てんで思い出せないくらいに自然な流れだった。
久しぶりの友人との会話で、本当にいろんなことをお互いに話した。大学生活のこと、高校時代のこと、今住んでいる県のこと。
私はどうしたって変わっていく人の中で、友人の大好きな部分が変わらず、むしろ会わない間に一層磨かれてそこにあることが嬉しくて、もう全部ありのまま言ってしまおうと思った。

話を聞きながら友人が見せてくれる散歩風景。そのすべてが愛おしい

他者比較で凝り固まった私は、SNS上の誰かのように「楽しい大学生」でいようとしていた。でもそれになりきれていない私が恥ずかしくて不安で、つい平気な振りをいていた。今日はそんな「ダサい」私も全部全部聞いてもらおうと思った。
いつも不安に押しつぶされそうな瞬間があること、自分だけ何も持っていないように感じること、揺れ動き続ける私をすべて。友人は最後まで聞いてくれた。ゆっくりゆっくりと紡ぐように、私の良くないところは良くないと、そして励ます言葉を渡してくれた。
午前3時を過ぎたころ、友人は歩き始めた。友人が歩いている間も私たちはいろんな話をした。歩きながら、一夜で本当に色々な景色を見せてくれた。
ぱらぱらとだけ見える都会の星空、夜の波打ち際、明け方の海、富士山、そして日の出。ビデオ通話の画面を通して見せてくれた景色は、決してSNSで「映え」と評価されるような質ではなかった。友人の歩くスピードに合わせて揺れる画面。途中で途切れる音。荒い画質。でもそのすべてが愛おしかった。
私たちは違う県にいるけれど決して離れていなかった。あの夜私たちは確かに一緒に散歩をした。きっと友人は、自分が見えている綺麗な景色すべてで私を応援しようと思ったのだと思う。

余計な汗みたいなものが洗い流されたあの夜は、間違いなく美しい時間

あの夜を通して、私は確実にいろんな、余計な、汗みたいなものが洗い流されたと思う。あの夜は間違いなく美しい時間だった。今後もずっと、あの夜の思い出や言葉をひっそりと覗きに行ってしまうだろう。そんな宝箱の中にしまわれた小さな宝石のような夜。
SNSのフィルターを通してのエモいだとか綺麗だとか、そんなものに流されなくたって私は大丈夫なのだ。私が惹かれる綺麗は、本当に何気ない日常の中に突然現れる。大丈夫、私の「綺麗」とか「楽しい」は誰に見せなくたって、誰に評価されなくたって私の中にちゃんとある。
これからも様々な人に出会うだろう。人にはそれぞれ素敵な部分があって、社会にはなんとなくみんなが従わないとと思うような価値観があって、そこに上手に乗り切れている人もたくさんいて。
でも、誰かに焦って誰かの真似をするよりも、自分のやり方でゆっくりと輝いていけたら、それでいいな。